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春秋(9/30)

 国会演説の模範を戦前にまで探しにいくと、「憂国の熱弁満場を圧す」「高調に達した衆院論戦」と見出しが躍る記事があった。

回顧録によると、事前に一言一句を洗練しあらゆる攻撃に備えたそうだ。高い評判には「私は死すとも、永く憲政史上に残ると思えば、政治家としての一大責任を果したる心地」と書いた。覚悟と矜持(きょうじ)がみえる。

日本教職員組合の憲法的基礎

私は、これに対する日教組の声明に唖然としました。

「集会・結社・表現の自由」に抵触

憲法上の根拠は
第28条 勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、これを保障する。

にあるとばかり思ってきた

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20080929#1222664437

ウィズたからづか Web Site:宙組 花總まりさん

 これまで何度も取材をさせていただいたが、 花總まりさんからうかがった言葉で印象に残っているものは多い。 トップ娘役として最高の輝きを放ち続ける花總まりさんから 「階段を上るのをやめたら私はここにいられません」 という言葉を聞いた時は、 胸を打たれて言葉をなくしてしまった。 内容の重みと共に、 言葉を発する際の表情や声のトーンなど、 それらが醸し出す雰囲気の麗しさも胸に刻み込まれて、 こういう人を真に美しいと形容するのだ、 とつくづく思ったものである。

ジャンヌ・ダルクは、 いわゆる成熟した女性ではなく、 神々しいまでに清らかな聖女と称されている。

『易経講話 一』
P216

 『修辞立其誠。所以居業也。』辞を修むというは、言葉をととのえるのである。正しい美しい言葉を用いるようにすることである。辞は言語であるが、文字ありて以来は文章も辞の中に入るのである。言語などはどうでもよいことのように思われて、賢人君子など道徳を主とする人たちからは閑却され易いので、特に修辞ということがいってある。言語あるいは文章は、自分の思うところを他人に伝えるためのものであることは、いうに及ばぬ。もし自分一人でこつこつと仕事をして、他の人に関係のないものであるならば、自分の思うところを人に伝えることなどは、必要ではないであろうが、独りでできる仕事は至って少ない。かつ大きいことになればなるほど、どうしても多くの人といっしょに仕事をしなければならぬ。自分の考えをうまく人に伝えるには、どうしても言語または文章の力を借りなければならぬ。言語または文章をもってうまくいいあらわし、明瞭に意味がわかり、また、聞く人が好い感じをもってそれを聞くようにすることを要する。言語または文章をもって明瞭にうまくいいあらわすことが、修辞すなわち辞を修めるのである。そうしてまた、言葉をうわべのみ甘くいいあらわしただけではよろしくない。その中に誠がなければならぬ。その誠を立つとは、心の中に本来具有しておる誠実なる心を確立することである。外にあらわれておる方面では、うまく言語または文章を修めととのえて、間違いのないように明瞭にいいあらわし、そうして、自分の心の中に本来具有しておる誠実なる心を堅く立てるときは、必ず自分の事業がうまく進行し発達し、それにおり、それに安んじ、それを守ることができるのである。これを、辞を修めてその誠を立つるは、業におるゆえんなりという。ただ言葉だけを巧みに修め飾ったのでは、虚偽である。君子は辞を修めてその誠を立てるので、一言の偽りもない。それゆえに事業がうまく修まって行くのである。

『易経講話 一』
P188

「群竜をみるに首(かしら)无し吉」とある。いくつかの竜が皆雲の中に頭をかくしておるときは吉である。自分の道徳才能をひけらかさず、控え目にするときは吉なのである。天徳は乾の卦の徳であり、まことにこの上もなく貴い大きい徳であるけれども、物の首になり事のさきがけになってはよろしくない。才能が万人にすぐれておっても、自分の才能をひけらかさず、なるべく人の才能を用い、道徳が天下を蓋うに足るほどであっても、道徳に誇らず、万事控え目にしなければならぬ。天子は自分の道徳を用いず、自分の才能を用いず、臣下の道徳をもって自分の道徳とし、臣下の才能を用いて自分の才能とすべきである。大人物は皆そうであり、自分の道徳才能を用いて事をなさず、他人の道徳才能を用いて事を行うべきである。自分に道徳あり才能あることはもちろん偉大なることであり、尊敬すべきことではあるけれども、それよりも、人の道徳才能をもって自己の道徳才能とする方が、一層偉大なることであり、一層尊敬すべきことである。天徳は首たるべからずというは、大体、そういう意味であり、天徳はこの上もなく貴いものであり、この上もなく偉大なるものであるけれども、それでさえも首になることはできない。それでは真実に偉大なることを成し遂げることはできないのである。これが用九の道、陽を用いる道である。これが乾の卦の道であり、天下の道であり、大人の道であり、聖人との道である。

「ずる賢い」元生保レディー実刑 神戸地裁

「大手生保社員の地位を利用して顧客らをだましており、犯行は巧妙かつ手慣れておりずる賢い」

「まじめな公務員…裏で知識悪用」公金詐取で実刑判決

「まじめな公務員を演じる一方、裏で知識を悪用した。卑劣で悪質極まりない犯行」