回顧録によると、事前に一言一句を洗練しあらゆる攻撃に備えたそうだ。高い評判には「私は死すとも、永く憲政史上に残ると思えば、政治家としての一大責任を果したる心地」と書いた。覚悟と矜持(きょうじ)がみえる。
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別の当選1回議員(無派閥)は「今、選挙をやるには具合が悪い」と語った。
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『易経講話 一』
P216
『修辞立其誠。所以居業也。』辞を修むというは、言葉をととのえるのである。正しい美しい言葉を用いるようにすることである。辞は言語であるが、文字ありて以来は文章も辞の中に入るのである。言語などはどうでもよいことのように思われて、賢人君子など道徳を主とする人たちからは閑却され易いので、特に修辞ということがいってある。言語あるいは文章は、自分の思うところを他人に伝えるためのものであることは、いうに及ばぬ。もし自分一人でこつこつと仕事をして、他の人に関係のないものであるならば、自分の思うところを人に伝えることなどは、必要ではないであろうが、独りでできる仕事は至って少ない。かつ大きいことになればなるほど、どうしても多くの人といっしょに仕事をしなければならぬ。自分の考えをうまく人に伝えるには、どうしても言語または文章の力を借りなければならぬ。言語または文章をもってうまくいいあらわし、明瞭に意味がわかり、また、聞く人が好い感じをもってそれを聞くようにすることを要する。言語または文章をもって明瞭にうまくいいあらわすことが、修辞すなわち辞を修めるのである。そうしてまた、言葉をうわべのみ甘くいいあらわしただけではよろしくない。その中に誠がなければならぬ。その誠を立つとは、心の中に本来具有しておる誠実なる心を確立することである。外にあらわれておる方面では、うまく言語または文章を修めととのえて、間違いのないように明瞭にいいあらわし、そうして、自分の心の中に本来具有しておる誠実なる心を堅く立てるときは、必ず自分の事業がうまく進行し発達し、それにおり、それに安んじ、それを守ることができるのである。これを、辞を修めてその誠を立つるは、業におるゆえんなりという。ただ言葉だけを巧みに修め飾ったのでは、虚偽である。君子は辞を修めてその誠を立てるので、一言の偽りもない。それゆえに事業がうまく修まって行くのである。
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『易経講話 一』
P188
「群竜をみるに首(かしら)无し吉」とある。いくつかの竜が皆雲の中に頭をかくしておるときは吉である。自分の道徳才能をひけらかさず、控え目にするときは吉なのである。天徳は乾の卦の徳であり、まことにこの上もなく貴い大きい徳であるけれども、物の首になり事のさきがけになってはよろしくない。才能が万人にすぐれておっても、自分の才能をひけらかさず、なるべく人の才能を用い、道徳が天下を蓋うに足るほどであっても、道徳に誇らず、万事控え目にしなければならぬ。天子は自分の道徳を用いず、自分の才能を用いず、臣下の道徳をもって自分の道徳とし、臣下の才能を用いて自分の才能とすべきである。大人物は皆そうであり、自分の道徳才能を用いて事をなさず、他人の道徳才能を用いて事を行うべきである。自分に道徳あり才能あることはもちろん偉大なることであり、尊敬すべきことではあるけれども、それよりも、人の道徳才能をもって自己の道徳才能とする方が、一層偉大なることであり、一層尊敬すべきことである。天徳は首たるべからずというは、大体、そういう意味であり、天徳はこの上もなく貴いものであり、この上もなく偉大なるものであるけれども、それでさえも首になることはできない。それでは真実に偉大なることを成し遂げることはできないのである。これが用九の道、陽を用いる道である。これが乾の卦の道であり、天下の道であり、大人の道であり、聖人との道である。
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「大手生保社員の地位を利用して顧客らをだましており、犯行は巧妙かつ手慣れておりずる賢い」
「まじめな公務員を演じる一方、裏で知識を悪用した。卑劣で悪質極まりない犯行」