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『人間中野正剛』
P93

 しかれども吾人は決して乱徒を称揚するに非ず、ただその心術を論ずるなり。今の時、その心術より推して、その乱行を神聖視するに足る者幾人ありや。中斎が乱を企つるに至るまで、幾度か学問に鑑み、幾度か手段を尽し、煩悶懊悩の結果、遂に最後の決心をなせしものとすれば、その心事もまた悲しからずや。彼は後世より論じて社会主義的色彩を帯ぶと称せらる。しかれども今のときにおいて社会主義の是非はすでに問題とならず。されど所謂国家社会主義的政策は列強のようやく採用するところにして、社会問題を閑却するがごとき愛国者は到底今日の世に存在すべからず、しかして大塩中斎の所謂社会主義的色彩は、彼の一身の窮困より社会を呪詛して、自暴自棄的偏見を抱く者と、全くその類を異にせり。今日の所謂危険思想に流るる者、その境遇の同情すべく、心事の悲しむべきものなきに非ずといえど、彼らの大多数は耽溺生活に身を持ち崩し、悲惨なる生活はますますその思想を病的ならしめ、果ては男女の道、朋友の交等に至りて、人倫を絶するは愚か、ほとんど牛馬にすら劣るに至る。かくて世に疎んぜられ、世を罵り、遂に自己胸中の幻影をもって実社会を律せんとするは妄なり。彼らは烏滸(おこ)がましくも、社会組織の変更を説く、しかれども彼らは一歩現実の社会より傑出して社会の指導者たるの資格を有せざるのみならず、現実の社会にすら生存するあたわざる劣等の人格性行を備うるをいかんせん。中斎をもって彼らに比較せんか、その差ただに雲泥のみならざるなり。