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『人間中野正剛』
P79

 時事日に非にして大塩中斎を憶う。全国各地の米穀騒動は、ようやく危険なる風潮を伴い来たりてただに天保八年大阪の変を想見せしむるのみに止まらざるなり。今日この時天下に一人の大塩なきか。吾人は乱徒としての平八郎を慕うに非ず、誠意一徹、死をもって所信を貫くの中斎を仰ぐのみ。叛乱を企つるは尋常事に非ず、可否を論ずるは愚の極みなり。されど乱を成してなお同胞の救済主たる王あり、賊となりてなお国家の守護神たる者あり。大塩中斎のごとき、西郷南洲のごとき即ちこれなり。世人は彼らが憐むべき動機を諒とするのみならず、実にその叛乱の行為をも神聖視するに至る。ここにおいてか聊か血性ある者が、近世史上に中斎と南洲とを得て、大いにこれを快とする所以なきに非ず。かの国法に違い、秩序を紊乱せるの行為は、真に忌むべし。しかれどもこれ単に国法のもとにある者が、国法に準拠して、あるいは乱臣となし、あるいは賊子となすのみ。ここに深く信じ、篤く行わんとする者あり、自ら国法以上に飄逸して、道義の天上界におり、国法に反抗し、国法に処罰せらるるを分とせば、何者かこれを罪するを得ん。肉体は裂くべし、その生命は奪うべし、しかれども斃れて休まざるの所信は、遂に刀鋸鼎鑊(とうきょていかく)をもってするもこれを脅かすあたわず。真にある時代の弊習は、到底合法の手段によりて救済するあたわざりことあり、これらの時に際し、妖霧を排除して、世の進運を開拓するは、実にこれら国法の賊たる豪傑の士に待つこと多し。現に我が維新の志士は、旧幕府国法の賊にして、新政府国法の建設者たり。かの元勲と称せらるる者、皆この亜流に属せざりしはなし。十八世紀の欧州哲学者は、つとにこの意義を学術的に叙述して、所謂「革命の自由」なる説をなせり。その大要にいわく、国法は尊重すべし、国法下にある人民は、国法の覊束(きそく)を受けざるべからず、しかれども国法は人の作りしものにして、その国法を運用する者もまた人なり。故に国法必ずしも人民の実生活に適せざることあり、国法を運用する者、必ずしも立法の真意義に副わざることあり。すなわち弊害百出して、法を改め、法を執るの人を更迭せしむることあり、これを称して改革という。この改革を順調に行いて、毫も停滞するなからんか、邦家は常に安泰に、国民は常に幸福なり。しかるにある場合には、法を執るの人、私意に囚われ、権柄を用い、国民をして合法的改革を成さしめざることあり、一日現制度を維持せんか、一日人民の災難を増すの勢いを呈せばいかん。この時に当たりて、人によりて作られたる国法に服せざる他の人が、慨然として蹶起し、その国法を認めず、その国法を執るの人を認めず、合法以外の手段によりて国法の改変を企つるは、当然の勢いなり。