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『易経(上)』
P51

 このように易は天地の法を明らかにし、陰陽の理を窮め、性命道徳の道を修め、進取と退蔵とを兼ね、これを以って洗心し、これを以って研幾し、往を彰かにして来を察し、顕を微にし幽を闡にし、遂に死生の道を尽くし、幽明の故に通ずるものである。その窮極は、天命を知ってこれに安んじ楽しむにある。宇宙精神を認識し、陰陽の両道を弁ずる者にして始めてこれに達することができるのである。繫辞上伝に「天を楽しみ命を知る」とあり、説卦伝に「理を窮め性を尽くしてもって命に至る」とある。君子が世に処し、己れを成し命に安んずるゆえんを知るべきである。これが道徳的修養の標準である。
 易理に達する者は、善く神に通ずる者である。天地の理を明らかにし、変化の理を窮め、神明の徳に通ずる者でなければ、易道を究めることはできない。易にいうところの神とは何であるか。繫辞上伝に、「陰陽測られざるこれを神と謂う」とあって、天地間における陰陽の現象の至妙至幽にして測るべからざる作用を指して神というのである。故に天下の睿知にして最も理に明らかな者でなければ、この妙用を知ることはできない。繫辞上伝には「子曰く、変化の道を知る者は、それ神の為すところを知るか」、繫辞下伝には「子曰く、幾(き)を知るはそれ神か」、「神を窮め化を知るは、徳の盛(さかり)なり」といっている。天下の至神でなければ、天下の至変に通じることはできない。ゆえにまた繫辞上伝に「易は思うことなきなり、為すことなきなり。寂然(せきぜん)として動かず、感じて遂に天下の故(こと)に通ず。天下の至神にあらざれば、それたれかよくこれに与(あずか)らん」ともいう。これは筮竹によって占うに当って、無心にして思うことなくして誠を致せば、おのずから神に通じ、すでに筮するに及んで、天下の事において当らざるものがない。ゆえにこれを指して神明不測の作用とするのである。説卦伝にまた「神なるものは、万物に妙にして言を為すものなり」とあるのは、陰陽の変化作用が不可思議であって、天地間の万物に対してこれを生成発展させてきわまりない妙用を為すことをいうのである。言とは言葉であるが、また「これ」とも訓ずる。万物に対して至妙の変化を為す上から言うのであるが、ロゴスの意味にも当ると解して差支えないであろう。