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問題解決には「情報を集めない生き方」が有効

「身ひとつで生きる自分が学ぶ」ことが大事であり、教養とは「物識りたちの大風呂敷を指して言うのではない」

私に言わせれば、本当の意味の教育の歪みとは、およそ学問というものが、情報を集めて整理することと同じ意味になってしまっている事態です。

ここでいう「情報」とは、断片的な事実を切り取って、抽象化したものです。それさえ集めれば全体像を把握できるという考えが、いまの世の中で主流になっていると思います。

情報量を重んじる考えは、ここに身をもって生きているという事実から切り離されています

 数限りなくある情報を追いかけることが果たして学問といえるでしょうか。身ひとつの自分が無限に近い情報を取り入れることなんてできないし、ましてや体得も血肉化もできるわけない。

かつて刊本のない時代、書物は筆で写すほかありませんでした。いまからすれば、甚だしい情報不足です。けれど、本質的な学問は、そういう時代につくられました。

 生身の生活では、嫌でも効率や選択などということでは対処できない事実にぶち当たる。にもかかわらず、何か偉そうにものを言うときは、あたかもそういう事実がないかのように振舞う。

金次郎には、学問をしたいという思いがある。そのためには、自分がどう行動するかで心がいっぱい。

 相手はどうであれ構わない。“自分がどうするか”が、もっとも現実的な問題です。リアルに生きるということは、そういうことだと思います。

 金次郎の行いは戦略ではなく、目前の困難を自分でどう切り抜けるかに尽きます。与えられた困難に、どう応えるか。話し合って、戦略的に自分の利益を引き出すなんていうのは、ケチな根性です。

金次郎は、困難の性質を見極めたらパッと行動に移った。

 彼は情報によって困難の解決策を導き出すことをしなかった。それは「解決する自分」という独立した身があったから行えたのでしょう。

 自立している人間にとって、困難がはっきりとした問題として捉え直されたら、どう行動したらよいかの答は即座に出てくるものです。

 カメラでも素人は機能に頼りますが、プロは光の感じや部屋の雰囲気を把握していて、シャッターを押す瞬間、それが身体と連続した技に昇華しているかどうかが問われると思います。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20080731#1217460855
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