【世界史の遺風(101)】ピョートル大帝 啓蒙専制君主の「露魂洋才」 東大名誉教授・本村凌二 - MSN産経ニュース
そのロシアにあって、ソ連邦崩壊後の20世紀末のアンケートで「どの時代にもっとも誇りを感じるか」と尋ねると、過半数が「ピョートル大帝の時代」をあげたという。
たしかに、青年ピョートルはすでに身長2メートルをこすたくましい大男だった。幼いころは、母親とともにモスクワ郊外の村の館で過ごすことが多く、それが伝統や儀礼に縛られない気質を育んだらしい。母親を亡くしたとき、22歳のピョートルは母の死を嘆きながらも葬儀にもミサにも参加しなかったという。
そのころ、クリミア半島の東側に広がる小さな内海であるアゾフ海は、黒海につながる狭い出口をオスマン帝国の要塞でふさがれていた。この要塞を落とすべく、親政をはじめたばかりのピョートルはクリミア遠征を敢行したが敗退。だが失敗にこりず、やがてロシア最初の海軍「アゾフ艦隊」を編成してオスマン帝国の要塞を陥落させ、またたく間に若き皇帝(ツァーリ)の評判は高まった。
1697年、25歳のピョートルは、西欧諸国への総数250人という大使節団を派遣する。皇帝自身も匿名で参加するのは前代未聞だった。それだけ先進文明を自分で確かめたいという思いが強かった。ポーツマスでの海軍演習を見学したときには、感動のあまり「ロシアの皇帝であるよりは、イギリス海軍の大将でありたい」ともらしたほどだった。
しかも、帰国すると、出迎えた貴族顕官の顎ヒゲを切り落とすという乱行に走る。豊かなヒゲはロシア人古来の慣習であったから、誰もが度肝をぬかれた。さらには、ヒゲを生やした者に「ヒゲ税」をかけたり、洋服の着用を強制したりするのだから、西欧に憑(つ)かれた皇帝は家臣にとってもはや恐怖の的であった。ともあれ、留学生を派遣したり、都市自治を導入したり、暦法と文字を改正したりと、西欧化・近代化をめざした諸改革を断行したのだ(土肥恒之『ピョートル大帝』山川出版社)。
ピョートルの外交方針の要は、とにかく不凍港のある海への出口を求めることだった。1700年からの北方戦争では、スウェーデン軍に一度は敗れながらも、やがて雪辱戦に勝利してバルト海に覇権を築く。背景にはサンクトペテルブルクを建設して遷都し、艦隊を創設してバルト海ににらみを利かせたことがあった。それとともに、外国交易を推進し、諸産業の育成にも努力した。
こうして帝政ロシアの礎を築いたのだが、法に制約されない専制君主でもあり、強引な改革には大きな犠牲がともなっていた。重税への不満はもちろんのこと、軍隊や工場、築城から首都建設にまでかり出された民衆のなかには、ピョートルを悪の権化である反(アンチ)キリストと見なす説が広まり、反乱すらおこっている。
晩年のピョートルは持病に悩みながらも国務をよく果たしたという。個性豊かな人間であり、ずばぬけた行動力をもつ為政者であった。その魅力が多くの作家や芸術家の想像力を刺激したのだろう。後世ロシアの思想潮流にあっては、「スラブ派」と「西欧派」の論争が後を絶たず、その都度「ピョートル改革」の意味が問われ続けたのである。
とはいえ、西欧視察中には、大酒飲みのバカ騒ぎをくりかえして、ロシア人は野蛮だと諸国の宮廷人に知らしめたともされる。また、浅瀬に乗り上げたボートを自ら助けようとして水浸しになってしまい、それが死因につながったとも言われる。
だが、この辺りに、民衆の好むピョートル大帝のロシア人らしさがにじみ出ているのではないだろうか。まさしく、頭は西欧人でも心はロシア人だった、と人々は思い描いたのだ。大帝の大帝たる人気をたどれば、和魂洋才ならぬ露魂洋才が浮かび上がってくる。