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コラム:米FRBの止まらぬ権限拡大に鳴り響く「警鐘」 | コラム | Reuters

この会合は、元財務次官でスタンフォード大教授であるジョン・テイラー氏が呼び掛け、米地区連銀の元総裁や欧州中央銀行(ECB)の元理事、学界における金融政策の専門家などが顔をそろえた。議論したのは世界の中央銀行を動かす新たな政策の枠組みだった。

彼らの意見には幅があったものの、そこには共通の信念が存在していた。すなわち、米連邦準備理事会(FRB)は金融政策と信用政策において、自らの存在を脅かすような形で裁量的な権限を拡大してしまったというものだ。これは単純な伝統重視主義ではない。力を持った中央銀行当局者による告白であり、彼らは自分たちの限界を承知していて、みじめに失敗するよりは権限を制限してもらう方を望むという。なぜなら失敗を犯せば、FRBの独立性の消滅につながりかねないからだ。


リッチモンド地区連銀のラッカー総裁は若干ぼかした表現でこの点に言及。「信用の割り当てという分配政策への関与が、金融の安定に不可欠な中央銀行の独立性の根底をなす微妙な均衡状態に脅威となるのは避けがたい」と述べた。


それだけではない。FRBやその他の中銀に対し、過大な期待が寄せられているという認識も強まっている。財政政策から効果的な支援が得られない中で、中央銀行は景気刺激を担う唯一の存在と化している。特にワシントンではそうだ。選挙の洗礼を経ていない金融当局者に認められた新たな権限は、いずれも政治家の怠慢を覆い隠すものになっている。これは市場や経済にとって、最終的にはFRBにも健全なこととはいえない。


今回の会合メンバーに対して、新しいやり方を批判する旧時代の連中だと片付けたくなる面はある。話し手はほぼ一様に、古くはアダム・スミスやウォルター・バジョット、より近くはポール・ボルカーフリードマンといったタカ派の権威をこぞって引用した。会場(フーバー研究所のストーファー講堂)が、1929年の株式大暴落への鈍い対応ぶりがその後の大恐慌をもたらしたと考えられているフーバー大統領の名を冠した場所というのもぴったりだ。


しかしテイラー氏らは、金融政策分野における単なるラダイト運動主義者(技術革新反対者)ではない。ここに2008年以降に生じた2つの否定できない事実がある。第一は、中央銀行当局者が異例の対応を求められてきたことであり、第二は政治的な礼儀正しさが事態を悪化させてきたという点だ。これらは相互に作用してきた可能性もある。


FRBが世界を救うためにやってきたことすべてを考えてみればよい。3回の量的緩和やバランスシートを数兆ドル規模にまで拡大させたことなど、実験的な金融政策が実施されてきた。FRBは買い入れる資産について相当なリスクのある分野までを対象に加え、いわゆる「オペレーション・ツイスト」を通じて保有債券の平均償還年限も長期化した。


信用政策の権限も広がり、AIG(AIG.N: 株価, 企業情報, レポート)とベアー・スターンズの救済に参加したほか、ウォール街の証券会社を銀行へと転換させた。さらに金融市場におけるあらゆるバブルの芽を監視することを受け入れて、実質的にマクロプルーデンス政策面の監督機関としての役割までも引き受けている。


その一方で、米国の政治機構は機能不全になった。数年前に広がっていた歳出と税制に関する包括的な与野党合意(グランド・バーゲン)成立への期待は、実現しなかった。むしろ、与野党の歩み寄りはより難しくなっている。財政赤字は縮小したが、それは英知を集めた政策によってではなく、立法上の偶発事態によるものにすぎない。


金融政策はこうした政治の怠慢の多くを引き取って正すことを余儀なくされ、大きなモラルハザードを定着させてしまった。FRB原理主義者はこの危険性を認識している。フィラデルフィア地区連銀のプロッサー総裁はそのことをスタンフォードの聴衆に「われわれはうまくできると知っていることを行う必要がある。FRBに振り向けられる任務が多くなるほど、最適な形で処理するのが困難になっていく」との表現で説明した。


政治家や有権者、投資家が、中央銀行当局者を魔法使いのように考えてしまうことがどんどん当たり前になっているのだろう。ところが、近頃の中銀当局者は、へびだらけの沼地を進んでいく探検者の側面が強い。彼らが失敗に見舞われる前に、彼らの能力の限界を認識することが健全な行動だろう。それは議員たちをまともな立法作業に立ち戻らせることにもなるかもしれない。