「「在俗」と称している司祭たちは、俗世の人間であって、キリストにみずからを捧げていないかのようで、この重荷を修道司祭に押しつけ、修道司祭はそれを修道士に、戒律のゆるい修道士はそれを戒律の厳格な修道士に、これらのあらゆる者たちが一緒になって、それを托鉢修道士に…
托鉢修道士はそれをカルトゥジオ会修道士に押しつけますが、このカルトゥジオ修道士たちのもとでのみ信仰心は深く秘められておりまして、あまりに奥深く秘められていますので、外からは窺いようがないほどなのです」エラスムス『痴愚神礼讃』(沓掛訳)