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蒙昧主義 - Wikipedia

18世紀には、啓蒙主義者らが、敵である保守層、とりわけカトリック信徒を攻撃するために用いられた。

知の制限としての蒙昧主義の起源には、プラトンの『国家』における議論がある。これはのち新プラトン主義や否定神学キリスト教神秘主義、ヘルメス主義らが、「いいようのなさ」つまり表現不可能性という概念によって間接的に語るやり方に受け継がれた。当初、プラトン『国家』では、社会を安定させておくために知識が制限されることすなわち民衆が無知であることを好む「蒙昧な統治者(the obscurant)」が問題として扱われていた。


『国家』ではポイニケ(フェニキア)の物語としてテバイの建国神話を紹介する(第三巻414-17)。他の国民も国民もおなじ母なる大地からでてきたという意味では兄弟であるが、神は支配者になる能力を持ったものに金を混ぜ、その補助者(軍人・外人部隊)には銀を、農夫や職人には鉄と銅をまぜた。しかし時には金から銀が、銀から金が生まれる。重要なのは、金を以て生まれてきた子供を見定めることで、神託では「鉄や銅の人間が一国の守護者になるとき、その国は滅びる」といわれる。また、哲人王は、「高貴な嘘(Noble lie)」を使用してよいともされる。

また、東洋では、孔子が「民可使由之。不可使知之。」という言葉を残しており、これは長く「民はこれに由らしむべく、これを知らしむべからず」すなわち「民衆は従わせればよく、知らす必要はない」と解釈されてきた。この意味で孔子は「愚民政策」または「愚民化政策」を提案したわけで、「蒙昧主義」といえる。しかし、歴史家宮崎市定は、それは誤読で、この文言の意味は、「大衆からは、その政治に対する信頼を贏(か)ちえることはできるが、そのひとりひとりに政治の内容を知って貰うことはむつかしい」という意味であるとする解釈をしている。

19世紀から20世紀にかけて「蒙昧主義」は、抽象的で理解の困難な文体(様式)をあらわす論争的な言葉としても使われ始める。
近年の徳倫理学の議論では、アリストテレスのニコマコス倫理学が倫理的蒙昧主義として論難されている。

近代以降の哲学で強い影響力を持ったヘーゲルは、マルクスショーペンハウアー、また分析哲学論理実証主義者のエイヤーやラッセル、ポパーから蒙昧主義として批判された。そのうちエイヤーを含めた論理実証主義者は、ヘーゲルをはじめとする形而上学者たちの考えている問題や命題は擬似問題だったり、語を不適切に組み合わせた検証が不可能な命題であるためにそれが真であるための条件が分からず(つまりそれが正しい場合と間違っている場合とが判別できない)、それらの命題には何の認知的内容もない、即ち無意味であるとした。

ハイデガーや、その継承者であるレヴィナスジャック・デリダらに対しては、分析哲学フランクフルト学派などから蒙昧主義と批判が行われた。

ほかに、アラン・ソーカルは『知の欺瞞』においてジャック・ラカンジル・ドゥルーズといったフランス現代思想の思想家や哲学者たちが衒学のために必要もないのに数式や数学的概念をいい加減に用い、記述を分かりやすくするどころか曖昧で難解にして無意味な言説に思想が有るかのようにレトリックを駆使しているとの批判を加えた。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20141111#1415702484
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20140420#1397990183
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20131205#1386240305


http://d.hatena.ne.jp/d1021/20141115#1416047867
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20141111#1415702477
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20141109#1415529964