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69夜『何人にも知られざる或人』 | 法律擬人化!〜赤ネコ式六法全書〜

 ベンサムが「フラグメント・オン・ガヴァーンメント」の第一版を出した時、故(ことさ)らに匿名を用いて出版した。
 しかるに、今まで法律家の金科玉条と仰がれたブラックストーンの学説を縦横無尽に駁撃し、万世不易の真理とまで信ぜられていた自然法主義および天賦人権説に対(むか)って反対の第一矢を放ったる耳新しき実利主義と、この卓抜なる思想にふさわしい流麗雄渾なる行文とは、忽(たちまち)にして世人の視線を聚(あつ)め、未だ読まざるものはもって恥となし、一度読みたるものは嘖々(さくさく)その美を嘆賞し、洛陽の紙価これがために貴しという盛況を呈した。
 そしてこの書の名声と倶(とも)に高まったものは、そもそもこの無名の論客は果して何人(なんぴと)であるかという疑問の声であった。

 ベンサムは後に自らこの事を記して、「我父約を守らざりしがために、この書の著者は何人にも知られざる或人」(Somebody unknown to nobody)なりと知れ渡るや否や、書肆の門前は忽ち雀羅(じゃくら)を張れりといっている。
 けだし「年少何の罪ぞ、白髪何の尊ぞ」の感慨禁じ難きものがあったであろう。さるにても、世人書を買わずして名を買う者の多きことよ。

ジェレミ・ベンサム - Wikipedia

ベンサムは、同性愛は誰に対しても実害を与えず、むしろ当事者の間には快楽さえもたらすとして、合法化を提唱した。この他、功利主義によれば被害者なき犯罪はいずれも犯罪とならない。

自然法 - Wikipedia

自然法法源は、ケルゼンの分類に従うならば、神、自然ないし理性である。

自然法法源が制定法や判例法でない以上、その認識手段が常に問題となる。基本的に、自然法の認識原理は、その法源の種類にかかわらず理性であると言われる。

これに対して、自然法が人間には直接的には認識不可能であるという立場からは、何らかの補助手段を用いることが要求される。その場合、キリスト教自然法論は、神からの啓示を重視する。それは、専ら新約聖書および旧約聖書から得られる指図である。典型的な啓示は、モーセ十戒である。

自然法論 - Wikipedia

広義においては、自然法に関する法学、政治学ないし倫理学上の諸学説の総称である。最広義においては、ギリシャ神話以来の、自然から何らかの規範を導き出そうとする考え方全般を意味するが、狭義においては、近世自然法論から法実証主義の台頭までの期間で論じられることが多い。

自然法論という用語が最広義で用いられるとき、すなわちそれが文明開闢以来の西欧学問の全時代をカバーするときには、論者の表現の中に自然法という言葉が直接的には使われていない場合がある。例えば、ミッタイスはホメロスやヘシオドスの神話の中に自然法の原形を見出すが、ホメロスやヘシオドスが自然法という言い回しを知っていたわけではない。

次第に、事実と規範とは異なるという意識が芽生え始める。そのような方向性は、まず、プラトンの中に見出される。プラトンは、自然本性から与えられる絶対的に正しいものと、具体的な時と場所において相対的に正しい人為的規則とを区別する。前者は理念(イデア)、後者は現実となり、理念は現実が目指す永遠の目標となる。つまり、自然法とは「〜である」という事実に関するものではなく、「〜すべし」という事実の目標であるということが自覚されるに至った。


プラトンヘラクレイトス宇宙論から離れている点が、もうひとつある。それは、自然法は現実の中に内在しないということである。プラトンの哲学においては、現実が目標とする理念は、イデアとして、この現実世界の中ではなく、イデア界という超越的な場所に存在すると想定された。それは、現実の中には観測されず、思考によってのみ到達可能な場所である。すなわち、プラトンが言う自然法とは、正しい思考の末に発見される法であって、現実の中において観測可能なものではない。

アウグスティヌス自然法

トマス・アキナス自然法

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20150105#1420454781
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20150104#1420368315
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http://d.hatena.ne.jp/d1021/20141224#1419417963
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