長岡是容、下津久馬、元田永孚、萩昌国らと研究会を開く。これが「実学党」となり、筆頭家老の松井父子を頭目とする「学校党」と対立することとなる。
天保14年(1843年)、私塾(のち弘化4年(1847年)に「小楠堂」と命名)を開く。小楠の第一の門弟は徳富一敬であり、一敬は徳富蘇峰と蘆花の父親である。
天保14年(1843年)に長岡・横井らが藩校時習館のあり方に飽き足らず自らの手で行った勉強会に由来する。大塚退野の学風を慕い、李退渓(李氏朝鮮の儒学者)を範として治国安民・利用厚生・実践躬行を学問の本旨とし、そうした活動を通じて自らの内面を高めて真実を見出すことを目標としていた。これに対して、時習館の人々は「実学」追求の集団であるとする批判的な意味を込めて実学党と呼んだが、横井らは却ってこれを「内実(真実)の学問」の意味だと解釈して自らの呼称として用いた。
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20131207#1386413067
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20090112#1231713694
図書・出版 ぺりかん社
CiNii 図書 - 横井小楠の実学思想 : 基盤・形成・転回の軌跡
なんぞ富国に止まらん。なんぞ強兵に止まらん。
大義を四海に布(し)かんのみ。
それにしても政治家という輩、よほどくだらぬ人物ばかりが右往左往することになったものだ。
残念ながらぼくも、テレビにしょっちゅう顔を出す政治家諸君の20人ほどをよく知っているのだが、困ったことにこれらには、胸中に山水をもつ者がまことに少ない。「達人はすべからく明了」ということがない。「樸実」(ぼくじつ)が結晶していない。ようするに「面目」がない。たんに軽挙妄動が好きな連中なのだ。
人物が卑しいということは、政治家のみならず、何をもってするにもどんな職能につくにも、最大の欠陥になる。その卑しさが事態を右往左往させることはわかりきったことであろうはずなのに、それでも裏で保身と安泰を貯金しておきたいために、前もって「仁」や「胆」をそなえるということが疎(おろそ)かになる。ライバルを貶めることだけを画策する。そのうち失言や失態を演じる。あるいは裏でコソコソよからぬ者と付き合って、それが明るみに出る。なんたる体たらく。
加えて昨今は、「種々(くさぐさ)の人材を統(す)べる大才」がめっきりいなくなった。人士をつくる人士がいなくなったのだ。安倍晋三も「人を見る目がない」「脇が甘い」「危機管理ができない男」と言われるようでは行く手は惨憺たるものだが、そのような批評をする連中が、おまえらこそ驕惰侮慢(きょうだぶまん)なのでもあった。
本名は時存(ときあり)、家族や仲間うちでは平四郎と通称された。号の小楠(しょうなん)は、父の思いで楠木正成の子の楠木正行(まさつら)に肖(あやか)った。甥には徳富蘇峰や蘆花がいた。
肥後藩が誇る時習館は、漢学・習字・故実・礼式・数学・音楽の6教科と、進級のための句読術・習書斎・蒙養斎などを正課としているのであるが、小楠はいずれにも頭角をあらわし、たちまちリーダーシップをとるようになった。天保8年には居寮長(塾長)に推された。
この時期に小楠をいたく感銘させたのが、熊沢蕃山の『集義和書』と会沢正志斎の『新論』である。
小楠が日本の政治家や地方リーダーにとくに戒めたのは「驕惰侮慢」(きょうだぶまん)だった。日本のリーダー層が安逸に驕り、惰眠を貪り、諸外国を侮って慢心することを極端に攻撃したのである。とくに外交と交易においては「仁」をもって当たり、「共和」を訴えることが重要だと口をきわめて強調する。
文久2年(1862)、小楠は春嶽の要請をうけて江戸に入った。勝海舟との出会いはこのときにおこる。例の「俺はいままでに天下で恐ろしいものを二人見た。それは横井小楠と西郷南州だ」とのちに言わしめた出会いだ。
2度目は、龍馬がその小楠の甥と門弟を引き取りに来て、またまた密談に及んだ。このとき小楠から「日本をおおいに洗濯しなくてはいかん」という言葉を聞いた。龍馬は家族にあてた手紙のなかで、「天下の人物といふは、肥後に横井平四郎」と綴った。
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20150108#1420713483
勝海舟は幕臣中の切れ者であったが、御一新の前に九
州を遊歴した時のことじゃ。彼はまず、熊本の横井小楠
を訪うた。ところが当時、横井の名声は非常なもので、
『横井平四郎さんなあ、実学なさる。』
と囃された時分だから、勝と対談すると雄弁滔々、数
千万言、時勢を論じ人物を評し、さかんにまくし立てた
ので、勝はお仕舞まで一言も吐くことが出来なかった。
学問といい、見識といい、加うるに弁舌といい、聞きし
にまさる大先生だと、勝はほとんど感服してしまった。
それから鹿児島へ下って西郷南洲翁に会ってみると、
横井とはまるで正反対で、自分から一口もきかず、ただ
勝の言うのを、?ハァハァ?と聞いているばかりである。
仕方がないので、今度は勝が説法をする役廻りとなった。
さすがに勝じゃ、?これぁ、とても段違いの人物だ?と
悟って、
『説法をするのと、説法をさせるのとでは千里の違い
がある。』
と、後に人に語ったそうじゃ。ここになると、天品と
人品との相違じゃ。
八
広く各国の制度を採り開明に進まんとならば、先づ我が国の本体を居(す)ゑ風教を張り、然して後徐(しず)かに彼の長所を斟酌するものぞ。否(しか)らずして猥りに彼れに倣ひなば、国体は衰頽し、風教は萎靡(いび)して匡救(きようきゆう)す可からず、終に彼の制を受くるに至らんとす。
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20150306#1425638597
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20150208#1423391788
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