日本の大学入試はフランスに170年遅れている!|鈴木寛「混沌社会を生き抜くためのインテリジェンス」|ダイヤモンド・オンライン
フランスのバカロレアは、そのままの形で日本に輸入することは難しいですが、日本のセンター試験と異なり、ほぼすべてが論述形式で執り行われるところ等は大いに参考になります。
日本で知られているバカロレアは、このナポレオンの時代からの大学入学資格を与える「普通バカロレア」のことですが、第2次大戦後にできた、専門職を対象にした技術バカロレア、進学をしない高卒資格付与の「職業バカロレア」もあります。
普通バカロレアは資格を取得すると、フランスの全土のどの大学にも入ることができます。
センター試験と同じく、高校の最終学年の生徒が全国一斉で受ける図式は同じですが、マークシートで機械的に回答させる我が国のそれと全く異なり、バカロレアは論述式です。しかも面白いことに、3種類のバカロレアのいずれも最初に受ける科目が「哲学」というのがお国柄です。
哲学では受験生は4時間をかけて回答します。ちなみに2014年の出題は3問。経済社会系向けの問1は「自由になる選択権があるだけで十分か?」、問2は「なぜ自分自身のことを知ろうと努めるのか?」と、それぞれ論述させ、問3では、私の敬愛するハンナ・アーレント『人間の条件』を解説させたというので驚きました。
フランスでは数学も答えが1つではなく、そのプロセス、ロジックをむしろ評価するそうで、「考え抜く」力を明らかに重視していることが分かります。
歴史の問題も同様に論述をさせますし、物理・化学は口述があります。
帰国後に関連資料にも当たってみましたが、創設から10年余りの頃のバカロレアは口述式で、1830年になって論述式が採用された歴史があります。しかし、その口述も当初の論述も細かな知識を問う形式でした。そこで1840年に当時の文相がバカロレア改革に乗り出しました。その通達には次のようなことが書かれています。
「順序や説明もなしに細かく詳しい事実をつめこむ教育や、知性よりも記憶に頼るような教育からは距離を取らなければならない」――まるで今日の日本の大学入試制度が直面している課題と同じであることに「フランスも苦労してきたのだな」と思います。
シュライヒャー局長との政策対話で出てきたキーワードの一つが「メタ認知」です。自分自身の認知活動を客観的にとらえ、評価し、コントロールする力のことを言いますが、メタ認知力の高い人は、複数の事象を目の当たりにしたとき、具象と抽象を自由自在に認識しながら、共通した要素を見抜けます。
幕末の長州藩では藩校の明倫館はまさに四書五経の「科挙型教育」。一方、松下村塾では、若者たちが書を読み、松陰先生と議論を重ねた「熟議型」教育を受けていたからこそ、彼らは明治維新という「国家のイノベーション」を成し遂げられたのです。
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20150308#1425810844
バカロレアにも一長一短はある。それを飛ばし、かつ吉田松陰と一直線に並べているという発想がわからない。かなり議論が単純化されており、こんな事例で大学入試改革がうんぬんされるのは率直に言って困る。むしろこんな疑似論理の欺瞞を見抜く批判力の涵養を教育の目標と掲げるべきかもしれない。