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山本芳久

アウグスティヌスの『告白』においては、彼がキリスト教に回心していくプロセスが、思想的発展、人々との出会い、聖書の読解など様々な観点から浮き彫りにされている。積極的な理由が語られていくというよりは、キリスト教を信じることを妨げてきた諸々の理由が除去されていくという流れが顕著だ。

山本芳久

アウグスティヌス『告白』は、「愛することを愛して」恋愛などに夢中になっていたアウグスティヌスが、愛そのものである神に出会い、自らが神を愛し始めるはるか以前から自らのことを愛し続けていた神の愛に気づいていく物語です。中世哲学全体の原点の一つであり、最も面白い書物の一つだと思います。

告白 上 (岩波文庫 青 805-1)

告白 上 (岩波文庫 青 805-1)

アウグス ティヌス 告白 (下) (岩波文庫 青 805-2)

アウグス ティヌス 告白 (下) (岩波文庫 青 805-2)

告白 (アウグスティヌス) - Wikipedia
アウグスティヌス - Wikipedia

受洗前の386年、ミラノの自宅で隣家の子どもから「Tolle, lege(とって読め)」という声を聞き、近くにあったパウロ書簡「ローマの信徒への手紙(ローマ人への手紙)」第13章13-14節の「主イエス・キリストを身にまとえ、肉欲をみたすことに心を向けてはならない」を読んで回心したといわれる。

アウグスティヌス自身はプラトン・新プラトン主義(プロティノスなど)・ストア思想(ことにキケロ)に影響を受けていた。

アウグスティヌスは人間の意志を非常に無力なものとみなし、神の恩寵なしには善をなしえないと考えた。このようなアウグスティヌスの思想の背景には、若き日に性的に放縦な生活を送ったアウグスティヌス自身の悔悟と、原罪を否定し人間の意志の力を強調したペラギウスとの論争があった(ペラギウス論争といわれる一連の論争は西方教会における原罪理解の明確化に貢献している)。

中世カトリックを代表する神学者トマス・アクィナスアウグスティヌスから大きな影響を受けた。

近代に入ってアウグスティヌス思想から影響を受けた神学者の代表として、ジャン・カルヴァンコルネリウスヤンセンをあげることができる。

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山本芳久

トマスはアリストテレス主義者だと長いこと言われてきました。最近は彼をアウグスチヌス主義者として捉えようという研究書もあります。ですが彼は何主義者でもありません。勿論「トミスト」でもありません。あらゆるイズムを超えて、同時にあらゆるイズムから学びつつ、存在の神秘に迫ろうとしたのです

トマス・アクィナス - Wikipedia

こうして5歳にして修道院にあずけられたトマスはそこで学び、ナポリ大学を出ると両親の期待を裏切ってドミニコ会に入会した。ドミニコ会は当時、フランシスコ会と共に中世初期の教会制度への挑戦ともいえる新機軸を打ち出した修道会であり、同時に新進気鋭の会として学会をリードする存在であった。家族はトマスがドミニコ会に入るのを喜ばず、強制的にサン・ジョバンニ城の家族の元に連れ帰り、一年以上そこで軟禁されて翻意を促された。初期の伝記によれば、家族は若い女性を連れてきてトマスを誘惑までさせたが、彼の決心はゆるがなかったという。

ついに家族も折れてドミニコ会に入会を許されるとトマスはケルンに学び、そこで生涯の師とあおいだアルベルトゥス・マグヌスと出会った。おそらく1244年ごろのことである。1245年にはアルベルトゥスと共にパリ大学に赴き、3年同地ですごし、1248年に再び二人でケルンへ戻った。アルベルトゥスの思考法・学問のスタイルはトマスに大きな影響を与え、トマスがアリストテレスの手法を神学に導入するきっかけとなった。

トマスの最大の業績は、キリスト教思想とアリストテレスを中心とした哲学を統合した総合的な体系を構築したことである。

全体的にみれば、トマスは、アウグスティヌス以来のネオプラトニズムの影響を残しつつも、哲学における軸足をプラトンからアリストテレスへと移した上で、神学と哲学の関係を整理し、神中心主義と人間中心主義という相対立する概念のほとんど不可能ともいえる統合を図ったといえる。

トマスの思想は、その死後もトマス主義として脈々と受け継がれ、近代の自然法論や国際法理論や立憲君主制にも多大な影響を与えただけでなく、19世紀末におきた新トマス主義に基づく復興を経て現代にも受け継がれている。

トマスの生きた時代は、十字軍をきっかけに、アラブ世界との文物を問わない広汎な交流が始まったことにより、東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌスの異教活動禁止のため、一度は途絶したギリシア哲学の伝統がアラブ世界から西欧に莫大な勢いで流入し、度重なる禁止令にもかかわず、これをとどめることはできなくなっていた。また、同様に、商業がめざましい勢いで発展し、都市の繁栄による豊かさの中で、イスラム教徒であるとユダヤ教徒であるとキリスト教徒であるとを問わず、大衆が堕落していくという風潮と、これに対する反感が渦巻いていた。


トマスは、このような時代背景の下、哲学者アリストテレスの註釈家と呼ばれていたアヴィケンナやアヴェロエスとは、キリスト教の真理を弁証する護教家として理論的に対決する必要に迫られていた。また、トマスは、同様に、アビケブロンのみならず多くのユダヤ人思想家とも対決をしなければならなかった。トマスは、アリストテレス存在論を承継しつつも、その上でキリスト教神学と調和し難い部分については、新たな考えを付け加えて彼を乗り越えようとしたのであり、哲学は「神学の婢」(ancilla theologiae)であった。

トマスは、神の摂理が世界を支配しているという神学的な前提から、永久法の観念を導きだし、そこから理性的被造物である人間が永遠法を「分有」することによって把握する自然法を導き出し、その上で、人間社会の秩序付けるために必要なものとして、人間の一時的な便宜のために制定される人定法と神から啓示によって与えられた神定法という二つの観念を導きだした。その詳細は以下のとおり。


永久法とは、この宇宙を支配する神の理念であり、そのうち、理性的被造物たる人間が分有しているものが、自然法である。そして、自然法のうち、人間が何らかの効用のために特殊的に規定するものが人定法であり、人間がより強く永久法に与れるように、神から補助的に与えられたものが神定法である[21]。すなわち、人間の能力には限界があるために、人々は永久法から与った自然法にもとづいて適切に人定法を制定するということができず、また、様々な意見の対立が生じるので、それを補うために神から与えられたものが、神定法である。ここで、神定法として念頭に置かれているのは、旧約聖書新約聖書において命じられている事柄であり、前者は旧法(lex vetus)、後者は新法(lex nova)と呼ばれる。永久法は、神のうちにある最高の理念であり[23]、あらゆる法 の源泉である。このような永久法の一部である自然法は、あらゆる人定法の源泉であり、その妥当性の基準となるとして、トマスは、永久法・自然法・人定法の階層構造を認めたのである。

余は如何にして基督信徒となりし乎 (岩波文庫 青 119-2)

余は如何にして基督信徒となりし乎 (岩波文庫 青 119-2)

第六章 内村鑑三『余は如何にして基督信徒となりし乎』 - 日本式論

 余が書こうとするのは、余は如何にして基督信徒となりし乎である、何故にではない。いわゆる『回心の哲学』は余の題目ではない。余はただその『現象』を記述し、余よりも哲学的訓練ある人々に材料を提供しようとするにすぎない。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20150503#1430650370