https://d1021.hatenadiary.com
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Kuni Sakamoto

セプール・ベダ『第二のデモクラテス――戦争の正当原因についての対話』岩波文庫、2015年「〈文明〉を持ちこむための征服戦争は是認さるべしとの彼の主張を支えたのは、先天的奴隷の存在を認めるアリストテレスの理論であった」http://amzn.to/1JkvbJB

Kuni Sakamoto

関連記事はこちら。ハンケ『アリストテレスアメリカ・インディアン』のまとめです。 「征服がもたらした善は悪をはるかに凌ぐ とある法学者の正戦論」 http://d.hatena.ne.jp/nikubeta/20120821/p1

征服がもたらした善は悪をはるかに凌ぐ とある法学者の正戦論 - オシテオサレテ


征韓論 - Wikipedia

明治6年1873年)6月森山帰国後の閣議であらためて対朝鮮外交問題が取り上げられた。参議である板垣退助閣議において居留民保護を理由に派兵を主張し、西郷隆盛は派兵に反対し、自身が大使として赴くと主張した。後藤象二郎江藤新平らもこれに賛成した。いったんは、同年8月に明治政府は西郷隆盛使節として派遣することを決定するが、9月に帰国した岩倉使節団岩倉具視木戸孝允大久保利通らは時期尚早としてこれに反対、10月には収拾に窮した太政大臣三条は病に倒れた。最終的には太政大臣代理となった岩倉の意見が明治天皇に容れられ、遣韓中止が決定された。その結果、西郷や板垣らの征韓派は一斉に下野(征韓論政変または明治六年政変)し、明治7年(1874年)の佐賀の乱から明治10年(1877年)の西南戦争に至る不平士族の乱や自由民権運動の起点となった。


#自由民権運動


日清戦争 - Wikipedia
清国ニ対スル宣戦ノ詔勅 - Wikisource
日清戦争の原因と結果

その頃の朝鮮は清が「朝鮮は我が国の管理下にある」と主張していた。日本も朝鮮を武力で開国させ朝鮮に影響力を強めていたけれども、清がどうしても邪魔!ということで、当時、日本と清はいろいろと揉めていた訳です。

日清戦争っていうから清つまり中国のど真ん中が戦争になったイメージを持ちますが、実は戦場はほぼ朝鮮半島だったんですよ。

日露戦争 - Wikipedia

大韓帝国冊封体制から離脱したものの、満洲を勢力下においたロシアが朝鮮半島に持つ利権を手がかりに南下政策を取りつつあった。

日本はこの戦争の勝利でロシア帝国の南下を抑えることに成功し、加えて戦後に日露協約が成立したことで日露関係は急速に改善し、革命によりロシア帝国が崩壊するまでその信頼関係は維持された。この条約により相互の勢力圏は確定され日本は朝鮮半島の権益を確保した上、ロシア帝国の軍事的脅威を排除して当面の安全保障を達成した。また新たに東清鉄道の一部である南満州鉄道を獲得するなど満州における権益を得ることとなった。

不凍港を求め、伝統的な南下政策がこの戦争の動機の一つであったロシア帝国は、この敗北を期に極東への南下政策を基にした侵略を断念した。南下の矛先は再びバルカンに向かい、ロシアは汎スラヴ主義を全面に唱えることになる。このことが汎ゲルマン主義を唱えるドイツや、同じくバルカンへの侵略を企むオーストリア・ハンガリー帝国との対立を招き、第一次世界大戦の引き金となった。
また、戦時中の国民生活の窮乏により、血の日曜日事件戦艦ポチョムキンの叛乱等より始まるロシア第一革命が発生することになる。

アメリカはポーツマス条約の仲介によって漁夫の利を得、満洲に自らも進出することを企んでおり、日露講和後は満州でロシアから譲渡された東清鉄道支線を日米合弁で経営する予備協定を桂内閣と成立させていた(桂・ハリマン協定、1905年10月12日)。これはアメリカの鉄道王ハリマンを参画させるというもので、ハリマンの資金面での協力者がクーン・ローブすなわちジェイコブ・シフであった。この協定は小村外相の反対によりすぐさま破棄された。日本へ外債や講和で協力したアメリカはその後も「機会均等」を掲げて中国進出を意図したが、思惑とは逆に日英露三国により中国権益から締め出されてしまう結果となった。

日露戦争の原因について
内村鑑三 - Wikipedia

日清戦争は支持していた内村だったが、その戦争が内外にもたらした影響を痛感して平和主義に傾き、日露戦争開戦前にはキリスト者の立場から非戦論を主張するようになる。

非戦論 - Wikipedia
勝海舟の日清戦争反対論 - 一人ひとりが声をあげて平和を創る メールマガジン「オルタ」

 つまり、日清戦争のときには海舟1人だった戦争反対論が日露戦争のときになると反対論(非戦論)の発信基地(平民社)が生まれ、そこから発行される「平民新聞」に非戦の主張が掲載されて一般国民に呼びかけるという明らかな違いがある。

日清戦争と勝海舟

海舟はそのような近代国家建設のあり方と,その手本となった欧米の近代文明のあり方にも批判の目を向けている。それが明確になるのは,日清戦争をめぐってであった。

『学問のすゝめ』で知られる文明開化の旗振り役であり,既に「脱亜論」を発表して「亜細亜東方の悪友を謝絶せよ」と主張していた福沢諭吉は,「『文明』の『野蛮』に対する戦争」として日清戦争を正当化した。また,伊藤博文も「文明」国の一員として清朝との講和に臨んだ。清朝全権の李鴻章が,日本の領土要求は将来の日本と清朝の協力を困難にしてアジアに対する欧米列強の侵略を激化させるから撤回して欲しいという趣旨の覚え書きを送ったのを無視して領土要求を貫徹し,さらに1871年に締結された日清修交条規を改正して,欧米が清朝に押しつけた条約と同様な不平等条約としたのである。後の日露戦争で決定的になる,欧米の帝国主義列強の側にみずからを位置づける姿勢が,早くもここであらわれている。

幕末以来の東アジア三国同盟論者であった勝海舟は,日清戦争を「不義の戦争」として終始一貫して批判し,日清戦争勝利後も,領土要求は欧米列強の新たな侵略をまねくとする立場からこれに反対した。

【近代−9】 勝海舟と日清戦争 歴史を図解で表現しよう!/ウェブリブログ


http://d.hatena.ne.jp/d1021/20150806#1438857266
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