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ノーベル医学・生理学賞に大村智さん NHKニュース

ノーベル賞博士は日帰り温泉オーナーだった | オリジナル | 東洋経済オンライン | 新世代リーダーのためのビジネスサイト

日本人のノーベル賞受賞者は、米国籍の2人の研究者を含め、大村氏で23人目(医学生理学賞3、物理学賞10、化学賞7、文学賞2、平和賞1)となる。

化学界では高名な大村氏だが、一般にはよく知られていない。これまでもノーベル賞の候補になっていたが、医学生理学賞では本庶佑・元京大教授や、森和俊・京大教授などがより有力だとする見方のほうが強かった。

まず1つ目は、研究者としての顔だ。山梨大学を卒業後、都立夜間高校の教師から研究者に転じ、数々の抗生物質を発見して重篤な熱帯病を撲滅寸前まで追いやった。国際的な産学連携を主導し、約250億円の特許ロイヤリティを研究現場に還流させた実績を持つ。日本ではしばらくこの記録は破られないだろう。 


第2は、法人経営者としての顔だ。財政的に行き詰まっていた北里研究所を立て直し、新しい病院を建設した。独学で蓄積した財務知識は、プロも認める経営感覚で辣腕をふるった。


第3は、各界リーダーとしての顔だ。美術への造詣が深く絵画のコレクターとしても知られ、請われて女子美術大学の理事長を通算14年間務めた。公益社団法人山梨科学アカデミーを創設し、出身地の人々に向けて科学啓発に熱心だ。


そして第4は人材育成の顔だ。大村門下から輩出した教授は31人、学位取得者は120人余りという数字は、教育者としての功績を物語る。公平で誰にもチャンスを与え、意欲を見せれば支援を惜しまない。


馬場氏はこの4つの顔は、まさに大村氏の業績を簡潔に示したものと説明する。長時間にわたり大村氏本人のインタビューを実施した馬場氏は、「1970年代、日本で産学の連携がまだ珍しかった頃、海外企業と契約を結び、めざましい実績を上げ、多くの人々を病気から解放した。それが今回のノーベル賞につながった。研究者として超一流、法人経営者、教育者としても超一流なのが大村博士のすごいところ」と評する。

大村氏がこれまでの日本人ノーベル賞受賞者の多くと違うのは、いわゆる知的エリート階級からは縁遠いこと。地方の国立大出身というのも異色だ。


家が山梨の農家で後を継ぐつもりであったため、大学に進学するつもりがなく、中学、高校時代はスポーツに打ち込んだ。県立韮崎高校時代にはスキーのクロスカントリーで国体に出場するほどの腕前だった。大学は地元の山梨大に進び、外国留学も30代半ばになってから実現している。


高校3年の春、父親から大学に進学してもよいと言われ、そのときに初めて地元の国立大である山梨大の存在を知ったほど。代々の農家であった父親は子どもに英語の重要性を説いていたというが、大村家が知的な環境に恵まれていたわけではない。


大村氏が北里研究所に採用されたときの肩書きは、「技術補」。実験の助手やデータ集めだけでなく、北里の研究所員は北里大学の講義も担当するため、上司の研究員が授業をする際の黒板の板書消しも仕事の一部であった。だが、実験と論文で実績を示した大村氏は数年で助教授に昇進し、その後に米国留学を果たす。それが大きな転機となった。


1971年、36歳のとき、米国ウエスレーヤン大でマックス・ティシュラー教授の下に留学。教授は米・化学学界の有力者で、世界的企業メルク社の元研究所長だったことから、メルク社を紹介され、それが縁で大村氏も世界レベルでの産学ネットワークと接点を持つことになる。これがイベルメクチンの開発にもつながることになった。

その温泉施設「武田乃郷 白山温泉」は、「この辺は必ず掘れば温泉が出る。温泉があれば地域の人も観光客も来てくれる」との大村氏の狙いによって建設された。

大村さん造った温泉施設に多くの人 NHKニュース
大村さんが土を採取したゴルフ場「光栄でうれしく思う」 NHKニュース

川奈ホテル

大村さん「まさかノーベル賞とは」 NHKニュース

「まだ気持ちの整理ができていません。きょうもかぜを引いていて帰ろうと思ったときに、スウェーデンから電話があって驚きました。何か賞を取ろうと思って仕事をしているわけではなく、世の中の役に立とうと思って必死でやってきましたが、まさかノーベル賞という結果になるとは思わなかった。土の中の微生物を信じてよい物を作るのが私の仕事で、それを認めてくれる人がいてうれしかったです。賞の半分は微生物にやらないといけないですね」

ノーベル医学・生理学賞 大村智さんが会見 NHKニュース

大村さんはノーベル医学・生理学賞の発表から2時間後となる午後8時半から東京・港区の北里大学で会見を開きました。
学生や大学の職員たちから大きな拍手と笑顔で迎えられた大村さんは、受賞を知った経緯について、「きょうは午後4時半ごろに帰ろうとしていました。予感がしたのか知りませんが、秘書から待つように言われて待っていたら、スウェーデンから電話がありました」と話しました。
みずからの業績については「私の仕事は、微生物の力を借りているだけで、私自身が難しい事をしたわけでも偉いわけでもありません。私は、微生物がやってくれた事を整理しただけです」と話しました。
受賞が決まったことを誰に最初に伝えたのかという質問に対しては、大村さんは「いちばん最初は心の中で16年前に亡くなった家内に伝えました」と答え、「家内は私が研究者としていちばん大変なときに支えてくれた。受賞を何より喜んでくれると思います」と話しました。
また、研究に取り組む姿勢について聞かれた大村さんは「私の母は小学校の先生で忙しくて、面倒をみてくれていた祖母からいつも繰り返し、人のためになることを考えなさいと言われていました。研究者になっていろいろとやりたいこともあるが、何をやるかを決める際にはどちらが人のためになるかという考えを基本にしていた」と話しました。
苦労した経験については「大学院に通っていたときは、昼は大学で勉強、夜は夜間高校の先生として生徒を教え、夜中に次の日の授業の準備をするという毎日でした。結婚した際に、家内からは『病人のようだ』と言われるくらいやせてしまっていた。ただ、自分は負けず嫌いで、昔、スキーの長距離種目で山を登っていたとき、心臓が破裂してぶっ倒れそうなくらい大変だったが、それに比べれば楽だと考えて続けていました」と当時を振り返りました。
そして、若い学生たちに伝えたいことを聞かれると、「いろいろやりたいことはあると思うが、失敗してもいいからやっていこうという気持ち。成功した人はあまり失敗のことをいわないけれど、3倍も失敗している。人よりも何倍もへましていると思うが、そういう中から成功が出てくる。とにかく失敗を繰り返してやりたいことをやりなさいと言いたい」と話しました。

大村智さん「予想以上の反響 すごい賞と実感」 NHKニュース

5日、3年前の山中伸弥教授に続き、日本人として3人目となるノーベル医学・生理学賞の受賞が決まった北里大学特別栄誉教授の大村智さんは、6日朝、都内の自宅前で記者団の取材に応じました。そして一夜明けての感想を聞かれると「予想以上の反響でノーベル賞というのは、すごい賞なんだなと実感しました。娘もおめでとうと言ってくれました。ただのおやじかと思ってたけれど少しはまともなことやったのかなと思ったんじゃないですか」などと改めて受賞の喜びを語りました。そして「地道な研究にノーベル財団が光を当ててくれたと思います。ハイテクな機械を使って難しいことを考えてやったわけではありません。毎日、同じ仕事の繰り返しです。でも、そうしたなかに人に役に立つようなものがあるんです」と語っていました。
さらにみずからが発見した抗生物質が多くの人に役立っていることについて聞かれると、アフリカのガーナに行った時の状況を話し、「木の下に目が見えず何もしない大人たちが座っていたことにまず驚きました。小学校に行ったら子どもたちがこちらの顔見て、わーっと寄ってきたんです。この子たちがああいう状態にならないんだと思うと、いいことができたなって思いました」と話していました。
さらに今後何をやりたいですかと聞かれると「今、私は80歳ですが、まず81歳まで生きることです。その間に少しでも、特に山梨の郷里のためになることをやりたい」と話していました。そして「国は地方再生などといっていますが、いちばん、やらなければいけないのは教育です。それは科学ができるとか、数学ができるとかじゃなくて、人に尊敬される、徳をもった生活をしたり、仕事をしたりできるような人、そういう本当の人間を育てたい」とみずからの今後について語っていました。

韮崎市に住む大村智さんの姉、山田淳子さん(81)は、弟のノーベル医学・生理学賞の受賞を受けて喜びを語りました。
このなかで姉の淳子さんは「昨夜は、自宅で夕飯の支度をしていたが、テレビを見ていた夫が『智さんがノーベル賞を受賞したよ』といったので『えー』と台所から飛んできて見入りました。智にはおめでとう、よくやったねといいたい」と弟の受賞について、喜びを語りました。
そのうえで、淳子さんは「弟は、小学生の頃は、やんちゃなところがあり、近所の友達とけんかしていたこともあった。ただいつも思うのは、弟が独りでここまできたのではなく周りの人に恵まれたことが最高に幸せだったのではないか。これからも皆さんに感謝しながら頑張ってほしい」と述べました。

大村智教授、ノーベル医学・生理学賞受賞会見「私は微生物の力を借りただけ」 - ログミー

日本というのは微生物をうまく使いこなして、今日まで来ている歴史があります。そういうのを大事にしております。


職業にしても、それから農業生産にしましても、我々微生物の成長をよく知って、そして人のために、世の中のためにという姿勢、伝統があると思うんですね。


そういう環境に生まれたことはよかったと思いますし、今回の受賞に繋がることができたのは、そういう先輩たちが築いてくれた学問分野の中で仕事ができたからであると思います。


それからもう1つは、北里柴三郎先生という化学者の言葉ですが、「とにかく化学者というのは人のためにやらなければダメだ」と。自分のためではなく人のためにやることが非常に大事なことなんだと。実学の精神、北里先生の実学の精神を伝えようとしてきました。


そういう中でもありまして、ですから人のために、少しでも何か役に立つことはないかな、微生物の力を借りて、何か役に立つことはないかなと絶えず考えております。そういったことが今回の受賞に繋がったと思っております。

「定時制高校の教師時代に向上心を得た」 NHKニュース

大村さんは、山梨大学を卒業したあと、4年ほど、東京・江東区の都立墨田工業高校の定時制で教師をしていました。
大村さんは、仕事のあとに手が油で汚れたまま期末試験を受けていた生徒の姿を見てショックを受けたということで、受賞後の記者会見では、「こういうふうに勉強している人がいるのに、私はなんだと思いました。もっと勉強しなければいけないと思いました。何でも知っている先生になろうと思いました」と述べました。

大村さん 地道な研究活動が実を結ぶ NHKニュース

1970年代、北里研究所に所属していた大村さんは、当時、開発が進んでいなかった家畜の病気の薬の種になる物質を探そうと、ポリ袋とスプーンをいつも携帯し、どこかに出かけるたびに土を採取していたといいます。
1グラムの土の中には、1億もの微生物がいるとされていて、中には薬のもとになる物質を出す菌がいるため、大村さんは菌を大量に培養して性質を調べる独自の手法を使って、1年間で2000から4000の菌を分離して調べる実験を繰り返しました。
このうち、注目したのがカビのように菌糸を出す「放射菌」という細菌の仲間でした。
放射菌は、周りの別の種類の菌の増殖を抑える物質を出すことが知られていて、実験の結果を元に大村さんは薬の種になりそうなものをおよそ50種類選び、今回、同時受賞が決まったキャンベル氏に送りました。
キャンベル氏が詳しく分析したところ、この中の菌からマウスの寄生虫の駆除に効果が高い物質が見つかり、「エバーメクチン」と名付けたということです。
エバーメクチンを出す菌は、大村さんが静岡県伊東市のゴルフ場近くの土から採取したもので、試験管内の菌の色が通常のものに比べて濃く、菌の固まりの大きさやつやにも特徴があったということです。
エバーメクチンを改良して効果を高めた「イベルメクチン」は、昭和56年に牛や豚など、家畜の寄生虫の駆除剤として販売され、世界で年間1000億円を売り上げるヒット商品になりました。
さらに、その後ヒトの寄生虫でも効果が確認されWHOによりますと、アフリカなどで流行しているオンコセルカ症の予防薬としてこれまでに4000万人を感染から守り、失明を避けられた人は60万人に上るということです。
大村さんと共同研究した東京大学大学院の北潔教授は、「最近はコンピューター上で薬になりそうな物質を探すことが多いが、大村さんの研究は、各地を回って新しい物質を探し出す伝統的な手法で地道に行われたものだ。こうしたやり方が大きな成果を上げられることを改めて示したと思う」と話しています。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20151005#1444042616
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20151005#1444042617
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20151005#1444042638
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20151004#1443954983
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20150526#1432637451