https://d1021.hatenadiary.com
http://d1021.hatenablog.com

日本国との平和条約 - Wikipedia

戦時中に同じ連合国であったソ連は、第二次世界大戦終結後、アメリカ合衆国と対立するようになり、資本主義陣営と共産主義陣営が対立する冷戦構造が戦後の国際社会で形成されていった。また中国大陸では、中華民国の覇権を巡って蒋介石の国民党と毛沢東らの中国共産党とが国共内戦を開始し(中華民国の歴史)、ソ連の支援を受けた中国共産党は国民党軍に勝利し、1949年には中華人民共和国が樹立、蒋介石らは台湾に移った。


また、1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発し、ソ連中華人民共和国北朝鮮を支援、アメリカら国際連合軍は大韓民国を支援した。この朝鮮戦争ソ連中華人民共和国は、アメリカらとの間では互いに交戦国となったため、第二次世界大戦当時の「連合国」による日本の法的な戦後処理をめぐる講和条約締結にむけた交渉は混迷した。結局、サンフランシスコ講和会議には中国(中華人民共和国中華民国)は招待されず、またソ連は参加したが、講和条約には署名しなかった。

こうした国際情勢を受けて日本国内では、アメリカとの単独講和と、第二次世界大戦当時の日本の交戦国でありかつ連合国であったソ連や中国も締結すべきとする全面講和論とが対立した。


単独講和とは自由主義(資本主義)国家陣営に属し、またアメリカとの二国間軍事同盟を締結してアメリカ軍部隊のみ「在日米軍」とし駐留を引き続き維持させる立場。実際には52国が講和条約に参加しており、そのため多数講和または部分講和ともいわれる。この他、片方の陣営とのみ講和を結ぶという立場から片面講和という言い方もある。


全面講和論は自由主義共産主義国家の冷戦構造のなかで中立の立場をとろうとするもの。いずれもソ連と中国を含むか含まないかが争点となった。全面講和論者の都留重人は、単独講和とは、共産主義陣営を仮想敵国とした日米軍事協定にほかならないとしている。


内閣総理大臣吉田茂は単独講和を主張していたが、これに対して1946年3月に貴族院議員となっていた南原繁(東京帝国大学教授)がソビエト連邦などを含む全面講和論を掲げ、論争となった。また日本共産党労働者農民党らは全面講和愛国運動協議会を結成、社会党も全面講和の立場をとった。南原は1949年12月にはアメリカのワシントンでの米占領地教育会議でも国際社会が自由主義陣営と共産主義陣営に二分していることから将来の戦争の可能性に言及しながら、日本は「厳正なる中立」を保つべきとする全面講和論を主張した。1950年4月15日には南原繁、出隆、末川博、上原専禄大内兵衛、戒能通孝、丸山真男清水幾太郎都留重人らが平和問題懇談会を結成し、雑誌『世界』(岩波書店)1950年3月号などで全面講和論の論陣を組んだ。


こうした全面講和論に対して1950年5月3日の自由党両院議員秘密総会において吉田茂首相は「永世中立とか全面講和などということは、 云うべくして到底行なわれないこと」で、「それを南原総長などが政治家の領域に立ち入ってかれこれ言う事は曲学阿世の徒に他ならない」と批判した。南原は吉田の批判に対して「学者にたいする権力的弾圧以外のものではない」「官僚的独善」と応じ、「全面講和は国民の何人もが欲するところ」と主張した。当時、自由党幹事長だった佐藤栄作は、南原にたいし「党は政治的観点から現実的な問題として講和問題をとりあげているのであって」「ゾウゲの塔(象牙の塔)にある南原氏が政治的表現をするのは日本にとってむしろ有害である」と応じた。また、小泉信三は「米ソ対立という厳しい国際情勢下において,真空状態をつくらないことが平和擁護のためにもっとも肝要」として、全面講和論はむしろ占領の継続を主張することになると批判し、単独講和を擁護した。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20151005#1444042623