https://d1021.hatenadiary.com
http://d1021.hatenablog.com

森永砒素ミルク中毒事件「十四年目の訪問」

私は落ちこぼれの生徒だったが、それなりにがんばって司法試験に合格し、 弁護士になれた。ところが、イソ弁(居候弁護士)をやめて独立したとたん、仕事の依頼はほとんどなくなり、生活に窮してしまった。そのころの私には仕事のツテも実力もなかったから当然の報いだったが、どうにもならないので司法修習生時代の教官に「今からでも裁判官にしてもらえませんでしょうか」と泣きついたこともある。しかしそうこうするうちに、たまたま大阪の水道バルブ会社の和議申し立ての事件を引き受けることになった。


私は債権者と会社の再建策について話し合いを始めたが、なにしろ暇だったので毎日のように会社に出かけていった。そして弁護士なのにボール盤やフライス盤を使って製品作りまで手伝っていた。戦時中、三菱電機の伊丹製作所に学徒動員されたとき、一年半ほど機械工として勤めていたから、そうした機械がひととおり使えたのである。それで会社の従業員が私のことを信頼してくれるようになり、私は和議事件をうまく解決できた。


すると驚いたことに、事件解決後、そのときの債権者たちが私を見込んで別の仕事を依頼してきた。「あんた、なかなかやるやないか」と言われて私は、 あまり頭がよくなくても現場さえ大事にすれば仕事はうまくいくんだなあと、 つくづく思った。この事件で現場主義のコツを学んだおかげで、私はそれなりに売れっ子の弁護士になることができた。


現場を通じて学んだことのなかで忘れられないのは、森永砒素ミルク中毒事件での被害者訪問だった。当時私はすでに四十歳を過ぎていたが、あれほど自分自身を大きく変えた現場は後にも先にも経験したことがない。私は半年ほどかけて砒素入りミルクを飲んだ被害者六十人を訪ねた。


「お母さん、いろいろしんどい思いをしはりましたなあ。そやけど、この十七年間でいちばん悲しかったこと、嫌なことは、いったい何だったでしょう か」


母親はまなざしを膝の上に落として、言った。


「……先生。あの子は生涯、『おかあ』と『まんま』と『あほう』 の三つの言葉しか言えませんでした。『おかあ』と『まんま』は、知能の遅れているあの子がなんとか生きていくためにと思って、私が必死で教え込みました。けれど、『あほう』という言葉は、私は一度も口にしたことがない。世間の人たちがあの子にそんなひどい言葉を何度も何度も投げつけたんです。私は、 そういう世間が憎い。憎くて憎くて、たまりません……」


母親はぶるぶると震える手をゆっくり持ち上げて、顔を覆った。私は身じろぎもせずに母親の嗚咽(おえつ)を聞きながら、自分が世の中のことを全然知らなかったのだと、気づかされた。

中坊公平・記念講演−要旨

 五五年、森永の徳島工場でつくった粉ミルクにひ素が混入して一〇〇人以上の乳児が死亡し、一万人を超える乳児が中毒になるという大惨事が起きました。五八年暮れ厚生省は、皆治った、後遺症は無いと発表。しかしそれが真っ赤な嘘であることが、事件から十四年経って、保健婦さん達が被害児を訪問してまとめた『14年目の訪問』の発表によって分かったのです。私は、被害者弁護団への参加を誘われました。しかしながら、「後遺症を治して」「恒久的な救援施策を」「森永製品の非買運動を」と、大企業森永と国を相手の裁判を進めていた弁護士は青年法律家協会(青法協)の人達で、当時アカ呼ばわりをされてました。


 私はやっと一人前の弁護士になれたところで、弁護団に加わってアカと見られるようになったらまずいな、と思い父に相談しました。ところが父の答えは予想外で、「公平、お父ちゃんはな、お前をそんな情けない子どもに育てた覚えはない。そもそも子どもに対する犯罪に右も左もあると思うのか。人様のお役に立とうかという時に、迷うてお父ちゃんに尋ねる、そんな情けない子に育てたつもりは無い」と言われたのです。この言葉が遺言だと思っています。


 −−被害者を訪問して−−


 集会では被害者の多くの方が、例えば森永は現金書留で一定金額を送りつけて、これで一切終わりだと宣言した、森永と国はけしからん、どんなにひどいことをしてきたかと訴えていたのですが、被害者の家庭を訪問してゆっくり話し合ってみると、森永の悪口を言う人は一人もいませんでした。“乳が出ない母親だったのが間違いだった”、“嫌がって飲もうとしなかったのに何故飲ませ続けたのか”、それに気付いて重湯に切りかえた人の子は軽症で済んだと言うのです。金すじ入りの高いミルクにはたまたまひ素は入っていなかったのですが、安い方を買った私が悪かった……と、誰もが自分を責めていたのです。 


 七二年に十七歳で亡くなった子どもの母親に、一番悲しい、嫌な思い出を尋ねました。「うちの子が17年の生涯で話せた言葉は『おかあ』『まんま』そして『あほう』の三つだけでした。お母さんである『おかあ』とご飯である『まんま』は、これだけは言えないと生きていけないと思って一生懸命教えこんできました。『あほう』は世間から言われて覚えたのです。外へ出れば迷子になるので連絡先を書いたゼッケンをつけてあげるのですが、喜んで出て行き、いじめられては帰って来ます。人前では泣かず、泣くことも知らないアホな子だと思われていました…私の手にすがった時初めて泣いたんです」と(涙声で)…。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20151110#1447152344
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20151110#1447152354


成功したければ日本型エリート思考 / 山口真由 <電子版> - 紀伊國屋書店ウェブストア