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『日本精神通義』
P104

この五祖・弘忍(ぐにん)が湖北省黄州府の黄梅県に多くの雲水を陶冶していた時(唐の高宗の頃)、一人の若い田舎者が飄然として禅師を訪ねてきました。彼は広東の田舎の土民の子でありましたが、貧苦艱難の裡に育って、市に出て柴を売ったりしてようやく糊口を凌いでおりました。天稟超俗の思いに豊であった彼は、ついに弘忍の徳風を慕って来たり、投じたのでありました。そして彼は、僧堂にあって、米搗き薪割りの労役に甘んじながら、懸命に修道に励んでおりました。
 ある日、弘忍禅師は突如、門下の大衆を集めて、各自の見性を叩いて法嗣を定めるといい出しました。これに応じてまず自己の悟境を発表したのが神秀上座(じんしゅうじょうざ)であります。
 「身是れ菩提樹 心明鏡台の如し 時々に勤めて拂拭せよ 塵埃をして惹かしむる勿れ」(莫遣有塵埃にも作る)
 しかるに、これに対して先の風来坊(盧行者)は、
 「菩提本と無(非)樹 明鏡また台に非ず 本来無一物 何処にか塵埃を惹かん」(何用拂塵埃にも作る)
 の一偈をもって報いました。
 神秀上座は善悪の葛藤を照見して、不断の除悪に人生の真諦を認めています。かつその偈がまだ心の直接の表現ではなくて、擬物に拘泥している点が著しい。人生の真相を善悪の葛藤に観て、悪を排して善を発揮して行こうとするのはいかにも結構な事である。結構は結構であるが(美則美矣)、まだ了悟したとは言えない。彼はまだその善悪なるものを解決していない。真性を徹見していない。果たせるかな弘忍は「これただ門外に到れるに過ぎぬ」として取りあげなかったのであります。
 これに比べると、確かに後の若き盧行者(ろあんじゃ)の偈は一歩を進めています。彼は、善悪も畢竟、相対的な現相に過ぎない。本来、性の活動である事を了得し、外物の存在に拘泥する域をはるかに離れた表現に達しています。いはば、神秀は未だ二乗の域を脱せず、盧行者は大乗の域に突き進んだものです。弘忍は深くこの青年行者の悟境に許しました。そして、次の日そっと彼を訪ねると彼は米搗き部屋で石に腰かけて米を搗いておりました。弘忍はその解行の円満に大いに感服して、ついにこの無名の青年行者を一躍、六祖に抜擢しました。これこそ慧能禅師であります。
 伝えるところによれば、神秀上座は身の丈高く眉目清秀にして、威風堂々、政治家的風格を備えておったといいます。頭脳も傑れておったのでありましょうが、要するに初期の敬樸雋逸(けいぼくしゅんいつ)な禅者とはよほどその風神に相違があったのではないでしょうか。その後、慧能は広東の曹渓地方に道誉を馳せたが、神秀は港北に去り、則天武后の寵を得て宮廷に勢力を得ました。これ北禅、南禅の分かれであります。しかしながら、もとより真の禅風はついに宮廷の沙門より起こらずして、曹渓より発展しました。