「令和になって何か変わりました?」(日比麻音子)
— Zetton (@zetton_zetton) 2019年5月1日
「変わるわけがないwww」(吉田豪)
「変わるやつが怖い」(みうらじゅん)#utamaru
私が思わず突っ込んでたら、スタジオでもこうなったんで、安心したw
今まで元号を大して気にした事無いのに、元年と言われると、心機一転、今年こそ、とか思うのが不思議なもんだ。乗せられたもん勝ちかな。
— 竹内健 (@kentakeuchi2003) 2019年4月30日
おっさんになり、若い人を見て「ああ自分もそれをやっておけば良かった」と思う事も多いけど。おっさんだからこそ、今それをやるチャンスなんだよね。失うものは何も無いから。
— 竹内健 (@kentakeuchi2003) 2019年5月5日
令和になったので新しいことを❣️✨
— 小嶋 陽菜 (@kojiharunyan) 2019年5月6日
と思い、私はずっとやってみたかった"VLOG"をはじめてみようとおもいます🥰🙌自宅やおでかけで日常をたくさん撮り溜めているのでお楽しみに!チャンネル登録して待っててね❤️
【HARUNA KOJIMA's cat nap】https://t.co/N0ClZKDp14 pic.twitter.com/prHQ5n5atA
「千里の道も一歩から」は、文章書きにも言えるし、本を読むことでも言える。渡辺知明『文章添削の教科書』で、わたしは文章は一文から発展させられると書いた。読書においても、本を読むこととは文章を読むことであり、文章を読むことは一文を正確に理解することなのだ。多くの読書術にはそれがない。
— 渡辺知明 (@WATANABE_tomo) 2019年5月6日
司法試験最後にやって欲しいこと。択一,論文を問わず平成30年度の問題を眺めること。おそらく今年も問われている実質的な内容は変わらないと思います。最後は基本と過去問ですね。#司法試験 #絶対合格
— 西口竜司(コンサル弁護士/辰已専任講師) (@ryuji24guchi) 2019年5月5日
#勉強法
令和になった瞬間は、石橋講師と今後について会議しながら迎えましたが笑、彼は受講生と「ファミリー」を形成している。一生モノの絆を作ろうとしている。合格させるのはその過程。最高。「だから何?」って異論は認めますが、でもこれが最強の個別指導。私も彼のファミリーの一員。つまりお爺ちゃん笑
— 谷山政司 (@taniyan0924) 2019年5月5日
司法試験とRPGは一緒。「パーティー全員が死なずにボスを倒そうとする」人がまだ多い。妙な美意識や完璧主義は本番では不要。ボスがぶっ倒れた時に、パーティーの一人が残っていれば勝利。ゲームクリア。パーティー全員死なずに倒せる人なんてそうそういませんよ。
— 谷山政司 (@taniyan0924) 2019年5月6日
楽しすぎた元号越しでした笑
— 石橋侑大(アガルートアカデミー講師) (@yudai1122yudai) 2019年5月5日
合格は当然。俺は俺の背中を見て挨拶や礼儀、頑張る、何より楽しむことを学べる一体感のある仲間=「ファミリー」にみんなとなりたい、みんなからそう思ってもらえるよう個別指導をしています。谷山さんに対して負けないっていつも言ってますが、個別指導に世界1本気です!
#家父長制#家族主義#平成に感謝#ありがとう平成#平成に育てられました
一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して、克く忠孝の美徳を発揮する。これ、我が国体の精華とするところである。
これで戦争をやった。
丸山眞男の言う「抑圧移譲」の構図ですね。
そろそろ終わりですね。。全てリワードで飲んでしまいました。。 pic.twitter.com/ZQ1bZlQKiV
— 藤本一郎 Fujimoto Ichiro (@ifujimoto) 2019年5月6日
研究では、調査参加者の個性、つまり、元々持っているマインドフルネスや自己中心性の程度にかかわらず、慈愛の心を持つことは効果を発揮した─https://t.co/XCV6cd4Ynp
— Forbes JAPAN (@forbesjapan) 2019年5月4日
近年はセルフケアへの関心が高まる一方、これまで長い間にわたり伝えられてきた先人の知恵が実は正しいことを示唆する証拠が多く発表されている。それは、自分よりも他者に関心を向けることが幸せになる鍵だということだ。
幸福研究ジャーナル(Journal of Happiness Studies)に3月に掲載されたアイオワ州立大学の新たな調査は、他者の幸せを短い間でも心の中で願うことで、他に効果がありそうな活動に従事したときよりも顕著に幸福度が高まり、ストレスが減少することを発見した。
他者の幸運を願うことが気分などの変数にどのように影響するかを理解するため、研究チームは学部生を対象にして、幸福度やストレス水準、生活への満足度、共感、思いやりのレベル、連帯感など複数の項目を測定した。それに加え、全体的なマインドフルネス水準や自己中心性、知性など個人の特性も複数の項目にわたり測定された。
研究者らは、それから参加者を4つのグループに分け、参加者らは全員キャンパス周辺を12分間散歩するよう指示された。1つ目の「慈愛のグループ」は、散歩中に見る人に対しそれぞれ心の中で「この人には幸せになってほしい」と考えるよう指示された。
2つ目の「相互関連性のグループ」は、すれ違う人と自分がどのようにつながっているかを考えるよう指示された。例えば、自分と同じ希望や夢、ストレスを持っている可能性や、同じレストランで食事をしたり、同じクラスに在籍したりしている可能性などだ。
3つ目のグループは、散歩中に見た人それぞれに対し、自分が相手よりもいかに良い境遇にあり幸運かを考え、社会的比較を通して相手を見下すよう求められた。
4つ目のグループは対照群で、すれ違う人が着ている服の色や生地、メーキャップやアクセサリーなど外的側面に目を向けるよう指示された。
その後、研究チームは再び参加者に気分や感覚について尋ねた。その結果慈愛のグループは、幸福度や連帯感、共感、不安など複数の基準で数値に改善が見られ、大きな変化を示していた。2つ目の相互関連性グループでは社会的連帯感が増加したが、幸福感や不安に改善は見られなかった。相手を見下すような社会的比較をしたグループと対照群には変化は見られなかった。
論文の著者のダグラス・ジェンティルは発表の中で「歩いているときに世界に対して親切心を持つことで不安が減り、幸福度や社会的な連帯感が向上する」と述べた。「時間がかからないシンプルな行動なので、毎日の活動に取り入れることができる」
有名な話に、元武装共産党委員長田中清玄氏との出会いがある。雲水となった清玄氏に問う。
「入門の目的は何か」。清玄氏は胸を張って答える。「世のため人のためにと念願して修行したいからです」。老師はつぶやく。「奇特なことじゃ」。三カ月後、同じやりとりがあって老師は烈火のごとく怒る。「まだ、分からんのか。わしは世のため人のために修行したことなど一度もない。皆、自分のためにやっているのや」。
清玄氏は、己のいのちをひたすら磨き続ける老師の姿が、そのまま他への布施行となっていることに気づいた。老師は語る。「一切が自分なのじゃ」。
神秀上座は善悪の葛藤を照見して、不断の除悪に人生の真諦を認めています。かつその偈がまだ心の直接の表現ではなくて、擬物に拘泥している点が著しい。人生の真相を善悪の葛藤に観て、悪を排して善を発揮して行こうとするのはいかにも結構な事である。結構は結構であるが(美則美矣)、まだ了悟したとは言えない。彼はまだその善悪なるものを解決していない。真性を徹見していない。果たせるかな弘忍は「これただ門外に到れるに過ぎぬ」として取りあげなかったのであります。
これに比べると、確かに後の若き盧行者(ろあんじゃ)の偈は一歩を進めています。彼は、善悪も畢竟、相対的な現相に過ぎない。本来、性の活動である事を了得し、外物の存在に拘泥する域をはるかに離れた表現に達しています。いはば、神秀は未だ二乗の域を脱せず、盧行者は大乗の域に突き進んだものです。弘忍は深くこの青年行者の悟境に許しました。そして、次の日そっと彼を訪ねると彼は米搗き部屋で石に腰かけて米を搗いておりました。弘忍はその解行の円満に大いに感服して、ついにこの無名の青年行者を一躍、六祖に抜擢しました。これこそ慧能禅師であります。
天地与我同根、万物与我一体(天地われと同根、万物われと一体)
『碧巌録』にある雪竇(せっちょう)禅師の言葉です。分別や執着を離れて無心になれば、自分と他人を分け隔てるものはなく、相手の気持ちになり切ることができます。この素直で清浄な心こそ、私たちが本来備えている仏の心です。
自分と他人だけでなく、他のあらゆる命や天地宇宙の大自然も、分け隔てのないひとつの大いなる命であると自覚するのが、天地われと同根、万物われと一体の心境であります。生命誌研究者である中村桂子さんは、著書の中で「人間は生き物であり、自然の一部である」と繰り返し提唱しておられます。「ひとつひとつの命が独立して存在しているのではなく、人間も含めたあらゆる生き物が、大きな関係性の中で互いにつながって生きている」と・・・・・・。
このような考え方は「天地われと同根、万物われと一体」の心にぴったり重なります。最先端の生命科学が仏教の智慧と見事に一致しているという事実は、大変興味深いものであります。自分の事ばかり考えて、他人を犠牲にしてはいませんか? いつの間にか自己中心的な態度になったりしていないでしょうか? そんな時は何事も行き詰まってしまうものです。自分の事ばかり考えていると、余計に自分が成り立たないのです。自他を分け隔てせず、敬意や感謝の気持ちを忘れずに、互いの幸せと調和を願うおおらかな心で生活したいものです。
ところが近世になると、デカルトの物心二元論によってこの世界が、真っ二つに引き裂かれてしまったのである。知られるようにデカルトは、「我思う、故に我あり」と説き、心だけが「自己」の内容であるとし、形が眼に見えるものは心のない「物」であるとした。
この説によれば、自分の掌でさえ、自分(心)によって眺められる客観的な「物」に過ぎないことになる。こうして「近世的自我」というものが確立し、片やあらゆる存在するものは心を持たない物体となった。こうして人間は勝手気ままに、身体や自然の物に手を下した。お蔭で科学は大いに発達したが、同時に人間は、死せる物の海に浮かぶ孤島となり、遂に今日のような不安な時代を迎えてしまったのである。いま人々のあいだに科学についての反省と、エコロジーの問題に深い関心が寄せられているゆえんである。