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#勉強法

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#家父長制#家族主義#平成に感謝#ありがとう平成#平成に育てられました

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一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して、克く忠孝の美徳を発揮する。これ、我が国体の精華とするところである。

これで戦争をやった。

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丸山眞男の言う「抑圧移譲」の構図ですね。

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近年はセルフケアへの関心が高まる一方、これまで長い間にわたり伝えられてきた先人の知恵が実は正しいことを示唆する証拠が多く発表されている。それは、自分よりも他者に関心を向けることが幸せになる鍵だということだ。

幸福研究ジャーナル(Journal of Happiness Studies)に3月に掲載されたアイオワ州立大学の新たな調査は、他者の幸せを短い間でも心の中で願うことで、他に効果がありそうな活動に従事したときよりも顕著に幸福度が高まり、ストレスが減少することを発見した。

他者の幸運を願うことが気分などの変数にどのように影響するかを理解するため、研究チームは学部生を対象にして、幸福度やストレス水準、生活への満足度、共感、思いやりのレベル、連帯感など複数の項目を測定した。それに加え、全体的なマインドフルネス水準や自己中心性、知性など個人の特性も複数の項目にわたり測定された。

研究者らは、それから参加者を4つのグループに分け、参加者らは全員キャンパス周辺を12分間散歩するよう指示された。1つ目の「慈愛のグループ」は、散歩中に見る人に対しそれぞれ心の中で「この人には幸せになってほしい」と考えるよう指示された。

2つ目の「相互関連性のグループ」は、すれ違う人と自分がどのようにつながっているかを考えるよう指示された。例えば、自分と同じ希望や夢、ストレスを持っている可能性や、同じレストランで食事をしたり、同じクラスに在籍したりしている可能性などだ。

3つ目のグループは、散歩中に見た人それぞれに対し、自分が相手よりもいかに良い境遇にあり幸運かを考え、社会的比較を通して相手を見下すよう求められた。

4つ目のグループは対照群で、すれ違う人が着ている服の色や生地、メーキャップやアクセサリーなど外的側面に目を向けるよう指示された。

その後、研究チームは再び参加者に気分や感覚について尋ねた。その結果慈愛のグループは、幸福度や連帯感、共感、不安など複数の基準で数値に改善が見られ、大きな変化を示していた。2つ目の相互関連性グループでは社会的連帯感が増加したが、幸福感や不安に改善は見られなかった。相手を見下すような社会的比較をしたグループと対照群には変化は見られなかった。

論文の著者のダグラス・ジェンティルは発表の中で「歩いているときに世界に対して親切心を持つことで不安が減り、幸福度や社会的な連帯感が向上する」と述べた。「時間がかからないシンプルな行動なので、毎日の活動に取り入れることができる」

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有名な話に、元武装共産党委員長田中清玄氏との出会いがある。雲水となった清玄氏に問う。
「入門の目的は何か」。清玄氏は胸を張って答える。「世のため人のためにと念願して修行したいからです」。老師はつぶやく。「奇特なことじゃ」。

三カ月後、同じやりとりがあって老師は烈火のごとく怒る。「まだ、分からんのか。わしは世のため人のために修行したことなど一度もない。皆、自分のためにやっているのや」。

清玄氏は、己のいのちをひたすら磨き続ける老師の姿が、そのまま他への布施行となっていることに気づいた。老師は語る。「一切が自分なのじゃ」。

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 神秀上座は善悪の葛藤を照見して、不断の除悪に人生の真諦を認めています。かつその偈がまだ心の直接の表現ではなくて、擬物に拘泥している点が著しい。人生の真相を善悪の葛藤に観て、悪を排して善を発揮して行こうとするのはいかにも結構な事である。結構は結構であるが(美則美矣)、まだ了悟したとは言えない。彼はまだその善悪なるものを解決していない。真性を徹見していない。果たせるかな弘忍は「これただ門外に到れるに過ぎぬ」として取りあげなかったのであります。
 これに比べると、確かに後の若き盧行者(ろあんじゃ)の偈は一歩を進めています。彼は、善悪も畢竟、相対的な現相に過ぎない。本来、性の活動である事を了得し、外物の存在に拘泥する域をはるかに離れた表現に達しています。いはば、神秀は未だ二乗の域を脱せず、盧行者は大乗の域に突き進んだものです。弘忍は深くこの青年行者の悟境に許しました。そして、次の日そっと彼を訪ねると彼は米搗き部屋で石に腰かけて米を搗いておりました。弘忍はその解行の円満に大いに感服して、ついにこの無名の青年行者を一躍、六祖に抜擢しました。これこそ慧能禅師であります。

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  天地与我同根、万物与我一体(天地われと同根、万物われと一体)

 『碧巌録』にある雪竇(せっちょう)禅師の言葉です。分別や執着を離れて無心になれば、自分と他人を分け隔てるものはなく、相手の気持ちになり切ることができます。この素直で清浄な心こそ、私たちが本来備えている仏の心です。
 自分と他人だけでなく、他のあらゆる命や天地宇宙の大自然も、分け隔てのないひとつの大いなる命であると自覚するのが、天地われと同根、万物われと一体の心境であります。

 生命誌研究者である中村桂子さんは、著書の中で「人間は生き物であり、自然の一部である」と繰り返し提唱しておられます。「ひとつひとつの命が独立して存在しているのではなく、人間も含めたあらゆる生き物が、大きな関係性の中で互いにつながって生きている」と・・・・・・。
 このような考え方は「天地われと同根、万物われと一体」の心にぴったり重なります。最先端の生命科学が仏教の智慧と見事に一致しているという事実は、大変興味深いものであります。

 自分の事ばかり考えて、他人を犠牲にしてはいませんか? いつの間にか自己中心的な態度になったりしていないでしょうか? そんな時は何事も行き詰まってしまうものです。自分の事ばかり考えていると、余計に自分が成り立たないのです。自他を分け隔てせず、敬意や感謝の気持ちを忘れずに、互いの幸せと調和を願うおおらかな心で生活したいものです。

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 ところが近世になると、デカルト物心二元論によってこの世界が、真っ二つに引き裂かれてしまったのである。知られるようにデカルトは、「我思う、故に我あり」と説き、心だけが「自己」の内容であるとし、形が眼に見えるものは心のない「物」であるとした。
 この説によれば、自分の掌でさえ、自分(心)によって眺められる客観的な「物」に過ぎないことになる。こうして「近世的自我」というものが確立し、片やあらゆる存在するものは心を持たない物体となった。こうして人間は勝手気ままに、身体や自然の物に手を下した。お蔭で科学は大いに発達したが、同時に人間は、死せる物の海に浮かぶ孤島となり、遂に今日のような不安な時代を迎えてしまったのである。いま人々のあいだに科学についての反省と、エコロジーの問題に深い関心が寄せられているゆえんである。