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現代思想の新たな「天才」――マルクス・ガブリエルの「新実在論」とは何か?|いま世界の哲学者が考えていること|ダイヤモンド・オンライン

ガブリエルによれば、ポストモダンの問題点は、「構築主義」にもとづくところにあります。そして、この「構築主義」の源泉は、メイヤスーと同じように、カントにあるとされています。

構築主義はカントの「緑色の眼鏡」を信じている。これに、ポストモダニズムは次のように付け加えた。私たちが身につけているのは、ただ一つの眼鏡ではなく、多くの眼鏡である。科学、政治、愛の言語ゲーム、詩、多様な自然言語、社会的な規約、などである。

「新実在論」を理解するために、ガブリエルが提示した具体的な例を取り上げてみましょう。彼は次のようなシナリオを語っています。


アストリッドがソレントにいて、ベスビオス山を見ているのに対して、私たち(あなたと私)はナポリにいて、ベスビオス山を見ている。


まず古い実在論(これをガブリエルは形而上学とも呼びます)によれば、唯一存在するのはベスビオス山だけです。これが、ある時はソレントから、別のときはナポリから、偶然に見られるわけです。


構築主義」の立場では、三つの対象、つまり「アストリッドにとってのベスビオス山」「あなたのベスビオス山」「私のベスビオス山」だけがあります。それを超えて、対象や物それ自体があるわけではありません。


それに対して、ガブリエルが提唱する「新実在論」は、少なくとも、四つの対象が存在すると考えます。


(1)ベスビオス山
(2)ソレントから見られたベスビオス山(アストリッドの観点)
(3)ナポリから見られたベスビオス山(あなたの観点)
(4)ナポリから見られたベスビオス山(私の観点)


彼は、これらすべてが存在すると考えるだけでなく、さらには「火山を見ているときに感じる私の秘密の感覚でさえも事実である」と述べています。


ガブリエルによると、一方の古い実在論は「見る人のいない世界」だけを、他方の構築主義は「見る人の世界」だけを、それぞれ現実と見なしています。それに対して、ガブリエルは次のように述べて、自らの「新実在論」を正当化しています。「世界は、見る人のいない世界だけでもなければ、見る人の世界だけでもない。これが新実在論である」。


こうして、ガブリエルの「新実在論」は、物理的な対象だけでなく、それに関する「思想」「心」「感情」「信念」、さらには一角獣のような「空想」さえも、存在すると考えるのです。その点では、「実在論」の一般的なイメージとは、いささか離れていると言えます。


それでは、このように存在する対象を広げることによって、ガブリエルは何を意図しているのでしょうか。それについては、2015年に出版された『私(自我)は脳ではない─21世紀のための精神哲学』のタイトルが示唆しています。その本でガブリエルは、精神を脳に還元してしまうような、現代の「自然主義」的傾向を批判しています。そうした「自然主義」によれば、存在するのは、物理的な物やその過程だけになり、それ以外は独自の意味をもたなくなります。


こうした動きに対して、ガブリエルの「新実在論」は原理的な次元から再考しようとしているのです。


実在論といったとき、もしかしたら、科学的な対象だけを存在すると見なす「自然主義」が想定されるかもしれません。しかし、ガブリエルが構想する「新実在論」は、そうした科学的な宇宙だけでなく、心(精神)の固有の働きをも肯定するものとなっています。

社会構築主義 - Wikipedia

現実 (reality)、つまり現実の社会現象や、社会に存在する事実や実態、意味とは、人々の頭の中で(感情や意識の中で)作り上げられたものであり、それを離れては存在しないとする、社会学の立場である。これは哲学的にはカントやヘーゲルなどドイツ観念論に起源をもつ。その後にデュルケームによって発展された。

構築主義本質主義との対立から生まれたと言って良い。本質主義は、デリダなどいわゆるポスト構造主義の研究者が批判する対象である。デリダ脱構築 (deconstruction) を主張し、社会の中の本質的な現実や、社会現象や意味は、人間が作り上げたものにすぎず、社会の中には本質的な実在は存在しないと主張する。しかしこのような立場では、多くの社会現象は具体的に分析不可能となり、考えること自体が無意味となってしまうと言える。

脱構築 - Wikipedia

本質主義 - Wikipedia

「本来、地獄なし」じゃないの? - ゆーぱの部屋 〜幸福の科学の教えから〜
真実を語る: 投稿・教義の検証・二元論と光一元論を考える

大川隆法は、昔、光一元論を「電球」に喩えて説明していた。
汚れているために曇っているだけなんだと。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20160102#1451730974

その汚れを落とすことがミタマを磨くことなのだが、前回と今回の思想家、というか現代思想家は、この視点が欠落している。
だから、カントとポストモダンを一緒くたにしてしまう。
理性の光でもって明々と照らしながら研究していないのだ。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20160914#1473849409
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20160829#1472467403
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20160824#1472034959
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20150410#1428662703形而上学は、純粋理性にもとづく哲学的認識が、体系的連関という形をとったものである)