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【第24回】

 中村伊一は後年編纂した『株式会社ワコール財務小史』の中で、


 〈昭和二十四年の暮から二十五年の春にかけて、この約半年間の経営の切回しは、まことに劇的かつ悲愴であった〉


 と淡々とした調子で書いているが、財務を任されていた中村からすればジェットコースター並の毎日だったに違いない。


 すべての責任を負っている塚本幸一本人はなおさらだ。精神的にとことん追い込まれていたことだろう。経営者は孤独である。いくら川口や中村でも相談できないことがある。幸一は鬱々として思い悩み、眠れない日々を過ごしていた。


そんな昭和25年(1950年)2月のこと、創業メンバーの一人である柾木の結婚式で、宗教法人「自然社」京都教堂の小野悦という人物と出会った。


 自然社とは、大阪府八尾市に生まれた金田徳光を教祖とし、森羅万象の根元たる皇大神を信仰の中心とする宗教である。人々に、人間本来の明るく素直な、自然(さながら)な心で生きていく道を示した。


大正元年(1912年)、金田は「御嶽教徳光教会」を創設。その後、「人道徳光教」、さらに「ひとのみち」と改称し、昭和9年(1934年)には東大阪市の布施に、1008畳敷の大広間のある仮本殿を落成させるまでに教勢を拡大させたが、昭和12年(1937年)、治安維持法不敬罪に問われるなどして(「ひとのみち」教団弾圧事件)解散させられてしまう。


戦後になると「ひとのみち」を継承して、PL教団などいくつかの団体が立ち上がった。自然社はその一つで、昭和22年(1947年)、初代教長橋本郷見により創設された。本部は大阪市阿倍野区松虫通だったが、中京区両替町通夷川上ルに置かれた京都教堂は、大阪中央教堂と並んで熱心な信徒が多かった。


 小野について詳しい資料は残っていないが、『自然社五十年史』に掲載されている昭和26年11月付の写真を見ると、知的な風貌の初老の紳士であったことがわかる。「ひとのみち」教団時代からの教師(信者たちの指導役)で、小野悦師と“師”をつけて呼ばれていた。


 幸一にとっては、精神的な支えがほしくてならなかった時である。「難関突破の要領とは如何?」という問いをぶつけてみた。


 すると小野は、

「難関などこの世にありません」


 と答えた。


 これにはさすがに納得できない。今の状況を難関といわずして何と言えばいいのか。


「それはわかりません。納得できません」


 と幸一が語気を強めて不満を漏らすと、


「明日以降、午前6時に道場に来なさい」


 と言われた。


 悲しいかな、商売がさっぱりなので少し時間に余裕がある。次の日から時間を見つけては道場に通うことにした。


 早朝まだ家人が寝ている時に起きて自然社京都教堂に通う。“朝詣り”と呼ばれる行事である。6時から8時ごろまで、信徒の体験談の発表があったり、小野の教話があったり、瞑想の時間などもある。


「難関は個人の主観であり、絶対的なものではない」


 小野からそう教えられた。


 絶対的な難関というものがあれば、1000人が1000人耐えられなくなり、自殺に至ることになる。ところが現実には、そんなことは起こっていない。かける眼鏡が違えば、難関は難関でなくなる。


 小野の話は宇宙の真理、人間の本質といったことに及んだが、それらは幸一が復員船の中で悟った「自分は生かされている」という思考の延長線上にあるものだと感じた。


 毎回、会うたびに疑問をぶつけ、教えを受けていった。


 そして2年ほどが経ったある日、この日も小野と対話をした後、瞑想した。いつものように教堂内はひんやりしている。


 するとこれまで自分の生きてきた日々の記憶が次々とよみがえってきた。どれほどの時が経ったか、心から「生かされた人生」を50年計画という形で実践できる自信がふつふつと湧いてきた。


 その瞬間、はっと目を覚まし、


「わかりました!」


 と一声叫ぶと、涙と鼻水を流し、その場に倒れ込んだ。一種の悟りの境地を開いたのだ。


 〈そのとき、「生かされている」自分を貫くために考えた言葉として「おのれを知る」が登場してきた〉(扇谷正造監修『私を支えた人生の座右書』)


 小野との対話に助けられながら見いだした「知己」(おのれを知る)という一つの境地を、彼は自分の座右の銘とするとともに、後にワコールの社内報の名にしている。


 彼の経営思想の根幹をなすものでもあり、少し長いが彼自身の文章をここに引用することとする。


 〈おのれを知る──。言葉通りに解釈すれば簡単なことだが、これを実践することは、なかなかできない。おのれを知る、ということは、物事に対する判断でつねに「可」か「不可」をいえる状況に自分をもっていることだ。


 よく、「あれは大変だ」とか「むずかしい」といった表現をする人がいるが、これほど物事から逃げている言葉はない。世の中のことは、自分が「できる」ことと「できない」ことの二通りしかないのだ。その判断をつねに無意識のうちに下せるようにしておくのが、「おのれを知る」なのだ。


 では、なぜ、「できる」「できない」の視点からしか物事を見ずに、もっとあいまいな解釈も認めないのか。人生にリハーサルはないからである。


 人生はつねに本番である。一刻一刻が、死ぬほどの真剣勝負のときなのだ。特に自分は「生かされている」と思って毎日を過ごしているわけだから、天が私にいつ死を与えるかもしれない。そのときがいつ来てもいいように、一日一日を真剣でいたいと思うのは当然のことである。


 しかし、どんなときでも「可」「不可」を明確にいえる自分をつくっていくためには、不断の克己心、努力が必要である。


 例えていうなら、甲子園球場のピッチャーズマウンドに立っている自分がいて、それを見つめている観客席のもう一人の自分がいるようにすることだ。つまり、主観と客観をつねに用意しておくことだ。これがないと、異常事態が起きたとき、とんだ失敗をやらかす。また、人生というのは、異常事態のくり返しである。それに対処できるようにしておけば、恐いものなどはない〉(前掲書所収)


 戦場で、あるいは経営者として、修羅場をかいくぐってきた者ならではの迫力ある言葉だ。彼がいかに厳しい思いで“おのれを知る”という境地をとらえていたかがわかるだろう。


 この開眼を契機に幸一は自然社を退会する。なんとか窮地を脱し仕事が忙しくなったためである。昭和27年(1952年)10月のことであった。彼が入会していたのは2年8ヵ月の間ということになる。


 だが幸一はその後も、小野に対する感謝の気持ちを忘れなかった。


 昭和61年(1986年)に発刊された前掲の『私を支えた人生の座右書』は、錚々たる第一線の経営者たちが自分の座右書について語ったものだが、彼は本などさして読まないとした上で、自然社との出会いについてかなりの紙幅を割いている。

そして銀座カネボウビル(現在のシャネルビル)の前まで来たとき、ふと2階にある写真館が目に入った。


 (そうだ、写真を撮ってもらおう)


 記念に写真を撮りたいと思うほど、彼は追い込まれていたのである。

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