https://d1021.hatenadiary.com
http://d1021.hatenablog.com

第20回「第三の女」|あらすじ|NHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』

大澤山 龍雲寺 公式サイト | 法話 | 水を掬すれば月手に在り、花を弄すれば香衣に満つ

水を掬えば仏法の光が輝き、花を弄すれば仏法の教えに触れる。すなわちいつでも、どこでも、見るもの、聞くもの、在るものすべてが何一つとして仏法の真理から離れたものは無いことを言おうとしています。
ただ私たちは、それに気づかないだけです。否、心がそこにないから、水を掬っても月に気がつかず、花を弄して衣の香りに気がつかずにいるのです。

心ここにあれば悟りの妙境を開くことができるのです。
私たちの人生にも、あり余るほどのいろいろな問題や悩みがあります。それを一つ一つ解決していこうとする真摯な心がまえがあれば、水を掬って月を収めるように、花を弄して香りが移りくるように、自然に納得できる答えを見つけ出すことができるのではないでしょうか。

第8話 水を掬し花を弄する - 法話図書館 佐藤俊明のちょっといい話

 この対句は、分別を超えた自他一如の妙境を、美しく文学的に表現したものである。
 清らかな水を両手で掬うと、月が掌中の水に宿る。中天に晧晧と冴えわたる「見られるもの」としての月が、「見るもの」としてのわれと一体になる。

 次にこの句は、「朱に交われば赤くなる」ということを教えているとも受け取れる。

 さらにいまひとつ、この句には何事も工夫努力を重ねれば、自然にその妙を会得することができる、という意をあらわしたものとも解されている。

掬水月在手 - 禅語に親しむ

どこもかしこも仏の命があり、仏の教えならざるはなしである。
禅的にいうならば、人境一如、自他不二で輝る月と、月を見る我と
一体となり月が我を包むか、自らが月に没入していくか、無心透明の
心に月は入りて耀く 。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20131120#1384944657

禅語「手のひらに掬う月」: 臨済・黄檗 禅の公式サイト

 江戸の国学者塙保己一が門人を集めて月見の宴を張った。盲人であった彼は、月を眺める人々の楽しげな声を聞いて、「花ならば 手にとりて見ん 今日の月」と詠んだ。傍にいた夫人が、「明月は 座頭の妻の 泣く夜かな」と受けたという。なんという二人の意気投合した詩境であろう。
 法然上人の歌に、「月影の いたらぬ里は なけれども 眺むる人の 心にぞすむ」というのがある。この素晴らしい歌は、そのまま大阪の浄土宗門立上宮高校の校歌になっていることを、甲子園で聴いて感動した。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20150226#1424947667
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20121011#1349966149