https://d1021.hatenadiary.com
http://d1021.hatenablog.com

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今村麻莉愛のトーク | 755

幽体離脱ができるもんなら、フレコンにいきたい(T_T)💦 あ、でも券がないと入れないやん👻👻👻👻

まりあも最近、自由自在に透明人間になれる能力ないかななんて、授業中に思ったりしてる笑笑

坂本愛玲菜(HKT48)のトーク | 755

#えれたす
✏︎『昨日より今日、今日より明日。前回より今回、今回より次回。』
https://plus.google.com/113611364612257749997/posts/N8oerhuMwUF?iem=4&gpawv=1&hl=ja-JP

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http://d.hatena.ne.jp/d1021/20170828#1503916638

上智福岡中学校・高等学校 - Wikipedia

Magis - 今の自分に満足せず、常により高い自己の発展を求めよ。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20170828#1503916637
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20170828#1503916640
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20141030#1414665479

【石川さゆり特別公演】に坂口理子の出演が決定! | ニュース | HKT48 OFFICIAL WEB SITE

【朗報】HKT48坂口理子、関西弁の芝居に挑戦 『石川さゆり特別公演』出演へ 【HKT48】 : HKTまとめもん【HKT48のまとめ】

公演とかでエセ関西弁を使いまくってたのが見つかったのかなーw

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松井のために用意されたものだからな…
みんないい迷惑だよ

キャバすけ
恋工場
プロレス


全部失敗
ヲタもメンバーも誰も歓迎してないという異常事態

やすすが王道プロデュースに飽きて
奇をてらった博打しかしなくなったのが痛い


神志那さんは自分で滑り台作って勢い良く滑ってた気がする

しゃべらなくても持つ人はなかなかいないのに、ボケて自滅してる。

神志那結衣(HKT48)のトーク | 755

皆さんおはようございます!
showroom配信の準備をしていましたが、今朝は配信を辞めておきます。
すみません。


全国の皆さん気をつけて下さい😣

さすがの判断ですね

大人の判断💡

賢明な判断だと思います。
同意します!!

福沢諭吉、戦火でも講義 - 「明治」という国家

福沢諭吉と上野戦争: ケペル先生のブログ

CiNii 論文 -  東洋式人間学について : ある東洋思想家の思想から考える

 人の問題は必然的に教育関係と結びつかざるを得ない。雑駁な知識をつめ込まれた人が企業で信頼を受け、力を発揮できるだろうか。現代風の系統的な学校教育を受けていない明治の元老や軍人達は、いずれも人物に風格があり、国の運営を誤らなかったのに対し、昭和の政治家や軍人は帝国大学や陸軍大学を出、先進国への留学ないし駐在をした人々で、知識の量は大きかったが国の運営を誤った。人物も倭小だった。少年期より国語、数学、理科、外国語とつめ込まれ、青年期には専門知識の海の中を泳いだのが彼等だ。わずか40年間で、外国人から「明治期の人物と昭和前期の人物は同じ民族、同じ人種とは思えない」といわれるほど、国の指導者層が劣悪化した原因の一つは教育方法にあると考えざるを得ない。

 私が安岡に関心を持つのは、①彼がいわゆる財界主流といわれる系列の人々に深い影響を与えたことであり、②彼の説くところが、現代の大学教育に欠けていると思われる点の反省資料になるのではないか、と思うからである。

 東洋では古来、学問とは次のようなことだとされてきた。
 「それ、学は通の為には非ざるなり。窮して困しまず、憂へて意衰へざるが為なり。禍福終始を知りて惑はざるが為なり」筍子。通とは、立身出世いうほどの意味である。
 日本でも明治以前は人格の培養と錬成が学問の目的であった。
 明治以降、日本では高等教育機関は、分析的、分業的、専門的知識の伝習の場となった。
 専門化、末梢化すればする程、それは人間としてのあるべき姿の根本から遠いものとなる恐れがある。分析的、概説的知識のみでは薄っぺらな人間味のない技術者や知識人を作ってしまう。

 「学問、知識などというものは、単なる論理的概念に止っている間は駄目でありまして、これを肉体化する、身につけることが大事であります。
いわゆる体現、体得であります…。浅薄、雑駁な知識、技術の学問であってはならぬ、体現、体得を重んじた知行合一の学問でなくてはならぬ」
 「論理や概念の遊戯からは人間はできない」
 「本当の学問をやった人一いわゆる悟道し、道を修めた哲人は骨の髄まで学問になっている。これに対して西洋の思想家、学者は知識や教養は豊かで洗練されていても、人物が本当に磨かれて、学問と同じように人間が出来ている人は非常に少ない」

 卒業にあたっては法学部長の上杉慎吉教授より、自分の講座の跡を継ぐよう奨められた。安岡は「学究の道よりも、実践によって人を育てるのが私に与えられた使命」だとして丁重に断っている。
 また、当時の宮内大臣牧野伸顕大久保利通の第二子。吉田茂元首相の岳父)の知遇を得、摂政宮(後の昭和天皇)の御教育掛の話もあった。この話は、東宮女官長島津春子(島津斉彬の孫娘)の「明治の御世のように、薩摩や長州といった後楯がなければ、今の宮中では何もできない、お断りなさいませ」という助言に従っている。

 財界の長老といわれた、郷誠之助(三菱)、小倉正恒(住友)、結城豊太郎(安田)、団琢磨(三井)、池田成彬(三井)、馬場鋲一(大蔵大臣)、中島久万吉(日本工業倶楽部理事長)らが30代の半ばの安岡を囲む会を持った。新聞で、白面痩身の昭和の由比正雪と書かれた。
 由比正雪といえば、東洋哲学史研究の先覚者であり、東大時代安岡の師でもあった井上哲次郎が安岡を、「私の見る第一人者はかの青年(安岡)である。唯、社会時流遂に救い難きにいたっては、彼は現代の由比正雪になるかも知れんと思い、時流がそこまで堕ちないようにと祈っている。勿論、彼は成果の見られない慶安の変のような愚挙はやらないだろうが」とある会合で語っている。
 安岡は当時、影響力の大きかった北一輝大川周明といった人物から一高時代より知遇を得ていた。ちなみに、北一輝夫人は、「安岡さんはお父さん(北一輝)の若い頃にそっくりだ」といったという。
 この頃安岡に会った今村均陸軍大佐(後大将)は次のように書いている。
 「物々しい風采の人かと想像していたところ、銘仙のかすりの着物に黒い袴をつけ、頭は軍人のような丸刈り。顔はいくらか青白いが、めがねを通して見る眼の光はいかにもしっかりしていていながら、やさしい光を帯び、まずは書生っぽ、という容姿。」

 大平は、「安岡先生と話していると心が洗われる気持がします。確信が湧いて心が決まるのです」とも、「大学時代には田辺元教授の哲学に没頭し、世に出てからは安岡先生の書を読んで、自分という人間ができたように思います」とも語っている。

 岸と安岡は対照的存在ともいえた。年令は2歳岸が上である。ともに政治家を目指して一高に入り東大を卒業した。秀才の多い両校の中でも二人は特別の存在であった。岸が明治維新の原動力となった長州出身で、維新時に活躍した曾祖父佐藤信寛を深く尊敬していたのに対し、安岡は楠木正行の戦死した古戦場四条畷の地で中学時代を過し、楠木正行とともに討ち死にした堀田正泰が遠祖であることを誇りにしていた。後述するように安岡の生家は堀田家で一高時代に安岡家の養嗣子となっている。
 両者は共に東大法学部の上杉慎吉門下で、二人とも卒業時には助手として学校に残ることを上杉から奨められている。

 岸の「統制と秩序」の考えは国家経済統制への道となったのに対し、安岡の理想は、国家の選良の人格陶冶と見識の養成による政治であり、そのための選良の育成であった。
 古今の聖賢に学び、着実に人物を作ってゆく、という考えである。

 安岡は生涯、実行・遂行責任者、言葉を替えればラインの長になることはなかった。文部省は入省6ケ月で辞めた。文部大臣就任への要請が何度もあったが断わった。摂政宮の御教育掛も断わっている。戦前の金鶏学院、日本農士学校、国維会、といった所でも院長、校長、代表、理事長、幹事といった前面に立つ役職にはつかず、顧問等の肩書きで背後に控えた。そうして精神的指導者の立場をとり、機関誌で盛んに自分の目的や理想を発表した。
 恩師の奨めにもかかわらず、大学教授への道も断った。ある組織に縛られることを嫌ったのである。学問を好んだが、学問の世界に閉じこもることはできなかった。

 一学問はしているつもりだ。殊に和漢先哲の学については、随分勉強している。でも世間でいういわゆる学者にはどうしてもなりたくない。少なくとも学問で飯を食っている人間とは断じて違う。

 安岡の学問や思想は幼少の頃に形づくられている。幼少の頃と中学時代に受けた影響は、彼の一高や東大時代よりもずっと大きい。一高や東大での教授連には落胆し、専ら図書館と下宿での勉強に明け暮れた。

 高校(旧制一高)や大学(東京帝大)では洋行帰りの新進教授が講壇に立っていた。講義を聞くと確かに時代感覚があり魅力もある。しかし、どうすることもできぬ不満、疑惑を感じる。重量感がない、気障というか、ちょこまかの感がまぬがれぬ。かえって中学時代に接した、頑固な人、時代遅れと思っていた先生に、どこか真実に迫るもの、人間としての重量感、品位といったものを感じた。
 それは明治20年代の中期から大正期にかけて東大で哲学を講じたフォン・ ケーベル博士の感想と不思議なほど一致している。ケーベル博士とは、夏目漱石が「文科大学へ行って、此処で一番人格の高い教授は誰だと聞いたら、百人の学生が九十人迄は、数ある日本の教授の名前を口にする前に、まづフォン・ケーベルと答へるだらう」と書いた人だ。
 ケーベルは、颯爽たる西洋帰りの日本人教授の西洋の学問の講義を片腹痛く思って、「この声高き、自負する、外に向える、忽忙なる、品位なき、欺瞞的なる、群衆の間および国外において認められ人として媚を呈する日本人」と酷評した。彼等は「自惚」と「欺瞞」の見本であった。
 しかし、一方でケーベルは旧藩時代に教育を受けた大学総長の浜尾新、漢学の根本通明、古代日本文学を講じていた物集高見の三人に対しては、「単純な、謙虚な、落着きのある、物静かな、思慮ある、高貴な性質」を見出した。浜尾以外はドイツ語はもちろん、英語も解せないからケーベルはこの二人と会話はできなかった。しかし、「これらの老紳士を見、また彼等の近くにあることは、私にきわめて愉快であった。けだし、それは本物の人間に接している、即ち誠実なる、高雅なる、立派に仕上のできた、健全なる人格にしてまたその本職に堪能なる士一教養ある、彼等一流の教育を受けたる、否、学問ある、そうしてあらゆる虚飾や、あらゆる自負を超脱させる………に接しているという感じがしたからである」)。

 一高や東大の洋行帰りの先生方は、西洋の法学や政治学の上っ面の知識を効率よく習ってきた人であった。安岡が幼少時より学んだ東洋の学問や禅の生き方は、あくまで「我いかに生くべきか」が中心であり、雑多な知識を学ぶことではない。

 東洋哲学の特色は、理屈で考えたり、理屈で答えない。体で考えて体で自得する。これを鍛え抜いて生かしたのが禅である。インスタント知識ではだめだ、というのである。
 白隠禅師は若い頃、信州飯山の正受老人に、「お前の議論はみな本を読んで知ったものばかりだ。そんなものは何の値打ちもない。お前の本当に自得した見性一自分の本性、本質を点検したところのものは何か。お前の本当のものを出せ」と一喝されている。

 安岡は次のようにもいう。
 「生活上の問題に一喜一憂し易く、特にすぐ悲観したり、興奮しやすい、というのは病的で事を成すに足りない。こういう人は環境に支配される力が強いのであるから、自己の主体性がない。自身の中に豊かな大和的内容がない」。
 「感情を害し易いということは徳を喪い易いということで、春のない荒涼たる人生となる」。
 「少々才能があっても、すぐへこたれたり、自分のことだけを大切に考えるような人間には長続きする大きな仕事はできない。仕事ができなければ人生を喜び楽しむことはできない。人生を楽しむためには、人間ができなければならない。このためには人間の在るべき姿を求め、その目標に向って修養・努力しなければならない」。

日本占領軍最高司令官だったマッカーサーは当時の吉田茂首相に次のようにいったという。「自分は青年士官時代観戦武官として日露戦争に従軍し、大山、児玉、乃木といった将軍に接した。彼等はいずれも人物に風格があった。40年後再び自分は日本の将軍と会う機会を持つこととなった。しかし、明治の将軍と比べ同じ民族、同じ人種とは思えなかった。一体どういうことだ」(前述の参考文献のところの3)参照)明治の将軍が学んだ学問と昭和の将軍が学んだ学問の差としか考えようがないのである。

 理解力、記憶力、判断力、推理力によって得られる機械的知識から、経験と思索反省を重ねた、体験の中からにじみ出る、直観的、人格的智慧にならねばならない。ドイツ流にいうと、Arbeitswissen(労働知)からBildungswissen(形成知)へ、更にErloezungswissen(解脱知)ないしHeilswissen(聖知)に到らねばならない。また、物を観察したり、記述したりするところの論理的、概念的な頭の働きによって得られるものは「聞見の知」であり、これでは物の皮相しか知ることができない。
 これが進んで、単なる事理よりも、もっと深い具体的把握、すなわち深い智的直観に到らねばならない。

 「人間はもう3、4歳から霊性に目ざめて、20前後まで本質的に変化する。それからはあまり進歩しない。それから先は鍛錬陶冶が加わるが、本質的変化はあまりない。大体人間の型が決ってしまう。だから20歳くらいまでは専ら人間の根本に関する学問と知性の基本的陶冶をさせるべき時である。いろいろ枝葉を延ばしたり、或いは鍛錬を加えるということは後でもできる。とにかくそれまでに人間の徳性を延ばせるだけ延ばしておく。
これは教育の原理であり、秘訣である。だからその間にあまり知識、技芸の枝葉末節なものを沢山与えたり、徒らに抽象的な教育、或いは無暗に感傷的な教育をするということはよくない」
 江戸時代の武士の教育がこれであったともいう。武士の世界では人間を練る武道と聖賢の学問以外はやらさない。だから、17、8歳で堂々たる国士的風格ができる。
 感傷的教育云々が出たが、安岡は感情の振幅が大きいことや、すぐ悲観的になること、といった精神的もろさの不可と、精神のぶ厚さを作ることの重要性を常に説いている。
 また、人間の附属的要素にしかすぎぬ、知識教育に関して、知識を雑駁に詰め込むことの不可を説く。英語、歴史、算術、理科と先生が入れ替り、立ち替って、薄っぺらなことをいいかげんにつぎ込む、近代の学校、学問の一番悪いところは、この雑駁にある、とする。雑学をやり雑駁な勉強をすればせっかくの人間の知能、頭脳から心情まで破壊してしまう。
 荻生徂徠は父の上総での調居時代、14歳から25歳までの11年間、「大学諺理」という一冊の本のみ耽読したことを安岡は雑駁な読書と対比して書いている。
 知識に関しては、「独身時代や学生時代というものは、とにかく知識だとか理解に興味を持つが、そういうものは突きつめていうと別に大したことではない、そういうものは現実には何の力にもならぬ」
 安岡は繰り返していう。「知能」や「技能」はあくまでも第二義的なものである。「徳」が本幹であって、「知能」や「技能」は枝葉であり、付属的なものである。

 また、知というものは、細分化し、専門化し、末梢化していくにつれ、生命の本源から遠ざかる。末梢化すれば常に、根源的なもの、本来のものに還らなければならぬ。
 理論、理屈というものに関しても、これは何か為にするところがあればいくらでも見立てることができる。昔から、「口は調法」、「かれも一理、これも一理」、「泥棒にも三分の理」などといわれてきた。要するに理論は平行線であって、どこまで行ってもそれだけでは片付かない。いわんや人間生活に関する思想とか評論というようなものになると正に彼も一理、これも一理でなかなか結着するものではない。胸に一物があると理論、理屈というものはどうでもくっつけることができるものだ。

 「国家(間)の最も明確な相違は、人材(エリート)の差に外ならない。
人材は徳を体とし、才を用とする。……いかにして聖人、君子、即ち人材を養うかが教学であり、この人材を知り、これを用い、これに任すのが政治である。衆人を導いて道徳文明に高めてゆくのが政治の使命である。政は正であり、政治は政教である」
 「賢者が隠れているということは換言すれば、指導者がいないということでありますから、必ず国民生活が乱脈になる。近代イタリー建設の傑人マディニが、巧みに道破いたしておりますように、政治は元来、
Progress of all, through all, under the leading of the best and wisest
でなければならぬ。誠に名言です」

安岡は人格や道徳によらない、制度による福祉に疑問を投げかけ、「福祉国家は全部だめ。スエーデンもイギリスも」といっている。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20170827#1503830385
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20170817#1502966124
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20170805#1501929446


戦争体験を持つ司馬さんは、「なぜ日本は失敗したのか」「なぜ日本陸軍は異常な組織になってしまったのか」という疑問から、その原因を歴史のなかに探りました。

 たとえば一般的な小説では、主人公の性格が明るいか暗いかとはっきり書くより、明るい面もあれば暗い面もあるというように、人間の抱える矛盾を描くことが重要視されます。しかし、司馬さんの場合は、信長という人物の内面を描くより、信長という存在が与えた社会的影響を明らかにするほうが大事でした。

司馬さん自身が、敵味方の戦力の差や軍艦の性能を比較して論じるのではなく、「精神力で突撃せよ」という非合理的な精神論で戦車に乗せられ、九死に一生を得たわけです。


であればこそ、即物合理主義を訴える必要と、それを重んじる哲学を抱くに至ったのです。その体現者として、司馬さんは大村益次郎に出会いました。
 非合理的な組織と化した日本陸軍をつくった非常に合理的な人物との邂逅−−それが『花神』という傑作を生み出した原動力だと私は思います。

#司馬史観#合理主義#科学主義

https://pbs.twimg.com/media/DIXsv_LUIAEswj0.jpg

秋吉優花 (HKT48) あきよしゆかのトーク | 755

今家族で旅行に来てるんだけど、旅行先で優花ちゃん見かけたよ^_^

ええええええええ???!!
声かけてよ!笑笑
逆に恥ずかしい笑

秋吉優花 (HKT48) あきよしゆかのトーク | 755

声かけようかな?って思ったけど、優花ちゃんせっかくのオフやけん‼︎ あれかなって… それに始めての生優花ちゃんで…どう声かけようかわからなかったけん… もしまた見かけたら声かけるね。

優男すぎて涙が出そうです。

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#スマホ財布ショルダー

後藤萌咲(AKB48)トーク | 755

SHOWROOM
ありがとうございました!!!

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