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憲法改正をめぐり、自民党は去年の衆議院選挙で初めて政権公約の重点項目に位置づけ、先月、具体的な改正項目として掲げた「自衛隊の明記」など4項目の論点整理をまとめました。


自民党としては論点整理で両論併記にとどめた「自衛隊の明記」についても意見集約を図り、ことしの通常国会で衆参両院の憲法審査会に党の改正案を示し、議論を促進したい考えです。


安倍総理大臣は「2020年を日本が大きく生まれ変わるきっかけの年にしたい」と述べたうえで、各党が憲法審査会に具体案を持ち寄り、議論が深まることに期待を示しています。
また党幹部からは来年、2019年には、天皇陛下の退位や参議院選挙などが予定されていることを踏まえ、通常国会で改正の発議を目指すべきだという声も出ています。


一方で、党の憲法調査会で近く検討を始める公明党は、発議を行う国会での議論が十分に深まっていないとして慎重な姿勢を崩していないほか、野党第1党の立憲民主党は安全保障関連法を前提とした9条の改憲には反対する考えを示しています。


このため、自民党憲法改正の発議に向けて、与野党の幅広い合意を得ながら衆参両院の憲法審査会での議論を進めていけるのかが焦点となります。


 議論をするためには、その前提になる認識の共有がとても大切だ。これがずれてしまっていると、議論はいつまでたっても平行線のままになってしまう。いま、国会でもメディアの中でも、政治の議論がかみあっていないのは、この認識共有ができていないからではないかとつねづね感じている。


 この背景には、テクノロジーの進化や近代という時代の終わりでいろんなことが移り変わっているのに、わたしたちの認識がうまくアップデートされていないという問題があるのではないかと私は考えている。

 国際社会でいえば、アメリカが唯一の超大国として、圧倒的なパワーだった時代はそろそろ終わろうとしている。中国が台頭し、ロシアも暗躍し、EUではドイツが力をつけてきているけれども、どこかの国が強い覇権を握るというのは難しくなっている。少し前の話になるけれど、2012年にアメリカの国家情報会議(National Intelligence Council、略称NIC)という政府機関が「グローバルトレンド2030」http://www.mod.go.jp/msdf/navcol/SSG/topics-column/016.htmlというレポートを発表したことがあった。2030年に世界はどうなっているのかを予測したものだ。


 このレポートでは、2030年にはパワーが拡散し、以前のアメリカのような覇権国家はもう存在しなくなると言っている。中国のような新興国が強くなるだけではない。国家以外にもNGO(非政府組織)や企業など、それらの存在が相互に作用して、多角的で決まった形を持たないネットワークのようなものを形づくって、それが大きなパワーを持つようになるのだと書いているのだ。


 多極化とネットワーク、連合体が2030年のイメージなのだ。言い換えれば、相互作用の時代なのである。

 同じような指摘をしている「権力の終焉」(モイセス・ナイム)という本がある。2013年に刊行されて、フェイスブックマーク・ザッカーバーグが選書する「ブッククラブ」の栄えある第1回課題書にえらばれた。邦訳は2015年に日経BPから出ている。紹介文から引用すると、「経済、政治、社会、ビジネスなど、あらゆる分野における権力衰退の要因と影響を明らかにする」ということが書かれている本だ。


 これまでの国民国家のパワーはつねに「上意下達」だった。大統領や首相から独裁者に至るまで、上座にいる権力者が国民に上から指示し命令し、規範を押しつけた。管理する権力者側とされる側は、分離した存在だった。だから「殺す側と殺される側」「権力者と反権力」といった対決の論理が成立したのだと言える。この二項対立で社会や政治を語る人は、いまの日本にもたくさんいる。

「現代はかつてないほど広い範囲で、かつてなく安い費用で、移動したり、学んだり、他人とつながったり、通信したりできる資源と能力が得やすくなった。そんな状況が人々の認識や感情に与えているインパクトが、豊かさ革命と移動革命の相乗効果によって大幅に増大している。この事実が、世代間の意識、そして世界観の隔たりを否応なく際立たせているのである」


 国家のパワーが相対的に下がって、さまざまな小さなパワーが相対的に増大し、そこでは国家権力というただひとつのパワーではなく、さまざまなパワーの相互作用というようなものへと変わっていくことになる。

 もちろん政府や自治体が統治機構としての意味をなくすわけではない。法律や警察権を背景にしたパワーは今後も続く。でも統治機構のパワーは、人々や組織などさまざまなパワーの間の相互作用としてしか生成されなくなる。小さなパワーが相互につながり、さまざまなパワーゲームを行うことによって生まれてくるネットワーク的なものが、新しい統治の形態になる。


 そもそも「大きな政府」や大企業というのは、20世紀初頭の二つの世界大戦のためにつくられたものだ。国民全員が参加する総力戦を戦うためには、パワーを国家に集中させることが必要なのだ。そして同時に、総力戦のためにはすべての産業が効率良く、戦争のために生産しなければならない。だから中小企業をどんどん合併させて、大企業に集中させた。


 この大きな政府や大企業という仕組みが、戦争が終わってからも高度経済成長を成し遂げるために有利に働いたというのは、経済学者の野口悠紀雄さんが「1940年体制 ―さらば戦時経済」という名著で書いている。でも高度成長はとっくに終わり、総力戦が起きないかぎりはもはや強大なパワーの集中は必要なくなった。そして実際、「権力の終焉」に書かれているようにパワーは分散する方向に進んでいるし、米NICが指摘しているように、未来はますますパワーが分散する世界になる。


 こういう時代認識が、もっと多くの人に共有されてほしいと私は思う。もはや「強大なパワーが存在し、それに勇気を持って立ち向かう」という構図では、社会を的確に認識することはできなくなっているのだ。2018年は、この認識の共有とその議論をもっと進めて行きたい。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20171217#1513507655

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20171229#1514543941

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20171222#1513939155
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20120522#1337698520


また安倍総理大臣は、ことし春にも日中韓3か国の首脳会議を国内で開催し、中国や韓国との間で首脳間の相互訪問に道筋を付け関係改善の流れを確かなものとしたい考えです。ただ韓国で慰安婦問題をめぐる日韓合意の見直しを求める声が強まっていることに対して、政府内では日韓関係の悪化を懸念する声が強くなっています。


一方、アメリカのトランプ大統領エルサレムイスラエルの首都と認めたことにイスラム諸国が反発するなど、中東情勢は不安定さを増していて、原油の大半を中東地域に依存する日本にとって経済の再生を目指すうえでの大きな懸念材料となっています。


このため安倍総理大臣としては、中東諸国と良好な関係を維持し、トランプ政権と緊密な関係にある強みを生かして、中東和平交渉の再開などでも一定の役割を果たしたい考えです。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20171230#1514630329
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20171222#1513939157
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20171220#1513767492
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20171218#1513594437
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20171216#1513421128

佐藤優 『愚管抄』で危機の時代を読み解く

 こういう『太平記』の考え方は「下降史観」に通じるものです。下降史観とは、一言でいうと世の中は時代が経つにつれてどんどん悪くなっていくという歴史観です。理想的な社会は過去にあって、そこからどんどん堕落しているんだということですね。


 ここで世界観と危機の克服について考えることが重要です。前近代(プレモダン)的な下降史観では危機に直面した際、現在の世の中を一新するためには理想的な過去を取り戻すべきだという発想になります。これが「復古維新」の思想です。


 これに対して近代の世界観は正反対になります。近代の世界観は、世の中は時代が経つにつれてどんどん良くなるという「上昇史観」で、理性によって理想的な世の中を作り出すことができるという設計主義、構築主義です。それゆえ危機を克服するモデルは、理性で導き出した未来に求められることになります。


 しかし、このような思想は第一次世界大戦で限界を迎えました。私たちは理性に従った結果、大量破壊兵器を生み出し、楽園どころか地獄を地上に作り出してしまった。理性によって危機を克服するどころから、危機を作り出してしまったのです。私たちは第一次世界大戦で「近代の限界」に直面したのですが、それは理性によって理想的な未来を築くことができるという近代思想そのものが破綻したということなのです。こういう問題意識から当時、「近代の超克」が論じられたわけです。


 その後、人類は第二次世界大戦でふたたび「近代の限界」に直面しました。しかし第二次世界大戦アメリカの圧倒的な物量によって終了し、戦後はアメリカの下で平和と繁栄がもたらされました。「近代の限界」は資本主義によって棚上げされ、先延ばしにされてきたということです。


 しかし資本主義が行き詰まった現在、私たちは再び「近代の限界」に直面しています。この問題を解決しない限り、現下の危機は克服できないはずです。その意味で私たちは改めて「近代の限界」に取り組み、「近代の超克」を考える必要があるのです。


 その上で重要なのが、かつての「復古維新」の思想なのです。実際、この思想はグローバリズムが行き詰まった状況で出て来ました。目指すべきモデルが同時代(共時性)に求められないため、過去(通時性)に求められたのです。


 ただ目指すべきモデルとして求められた過去は、あるがままの過去ではなく、現在の問題意識によって理想化された過去です。ドイツ哲学者のユルゲン・ハバーマスはこういう目指すべき過去を「未来としての過去」と呼び、ユーゴスラビア内戦を読み解いてみせました。戦後流行したポストモダン思想も、成功したものはプレモダンの発想にもとづいていました。


 そもそも近代的な思考はここ200〜300年の流行にすぎません。もともと人間は歴史的にプレモダン的な発想をしてきたのです。それだから近代を超克するためには、近代以前の古典を読む必要があるのです。……

#政界再編#二大政党制