https://d1021.hatenadiary.com
http://d1021.hatenablog.com

www.youtube.com

藤原不比等(日本語字幕)

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180307#1520419447

3:00

鸕野讚良皇后
「大陸に負けない律令国家を作りあげるために
 法律の知識をもった信頼のおける若き片腕が必要なのです」

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180308#1520505610

持統天皇 - Wikipedia

諱は鸕野讚良(うののさらら、うののささら)。

淡海三船により、熟語の「継体持統」から持統と名付けられたという。

父は天智天皇中大兄皇子)、母は遠智娘といい、母方の祖父が蘇我倉山田石川麻呂である。

斉明3年(657年)、13歳で叔父の大海人皇子(後の天武天皇)に嫁した。中大兄皇子は彼女だけでなく大田皇女、大江皇女、新田部皇女の娘4人を弟の大海人皇子に与えた。

689年4月に草壁皇子が病気により他界したため、皇位継承の計画を変更しなければならなくなった。鸕野讃良は草壁皇子の子(つまり鸕野讃良の孫にあたる)軽皇子(後の文武天皇)に皇位継承を望むが、軽皇子は幼く(当時7歳)当面は皇太子に立てることもはばかられた。こうした理由から鸕野讃良は自ら天皇に即位することにした。

即位の後、大赦を行い、天皇は大規模な人事交代を行い、高市皇子太政大臣に、多治比島を右大臣に任命した。ついに一人の大臣も任命しなかった天武朝の皇親政治は、ここで修正されることになった。

持統天皇の治世は、天武天皇の政策を引き継ぎ、完成させるもので、飛鳥浄御原令の制定と藤原京の造営が大きな二本柱である。

こうした律令国家建設・整備政策と同時に持統天皇が腐心したのは、天武の権威を自らに移し借りることであったようである。

天武との違いで特徴的なのは、頻繁な吉野行幸である。

持統天皇は8月1日に15歳の軽皇子に譲位した。文武天皇である。日本史上、存命中の天皇が譲位したのは皇極天皇に次ぐ2番目で、持統は初の太上天皇上皇)になった。

譲位した後も、持統上皇文武天皇と並び座して政務を執った。文武天皇時代の最大の業績は大宝律令の制定・施行だが、これにも持統天皇の意思が関わっていたと考えられる。しかし、壬申の功臣に代わって藤原不比等ら中国文化に傾倒した若い人材が台頭し、持統期に影が薄かった刑部親王忍壁皇子)が再登場したことに、変化を見る学者もいる。

文武天皇 - Wikipedia

祖母・持統太上天皇(史上初の太上天皇)のもとで政務を行っていた。後の院政形式の始まりである。

草壁皇子天武天皇第二皇子、母は持統天皇)の長男。母は阿陪皇女(天智天皇皇女、持統天皇の異母妹、のちの元明天皇)。父・草壁は皇太子のまま亡くなり即位していないため、本来であれば「皇子」ではなく「王」の呼称が用いられるはずだが、祖母である持統天皇の後見もあってか、立太子以前から皇子の扱いを受けていたと考えられる。

このような若さで即位した理由を説明するために皇太子になった経緯をたどると、「懐風藻」によれば、持統天皇皇位継承者である日嗣(ひつぎ)を決めようとしたときに、群臣たちがそれぞれ自分の意見を言い立てたために決着がつかなかった。その際に葛野王が、「わが国では、天位は子や孫がついできた。もし、兄弟に皇位をゆずると、それが原因で乱がおこる。この点から考えると、皇位継承予定者はおのずから定まる」という主旨の発言をしたとされ、ここで弓削皇子が何か発言をしようとしたが、葛野王が叱り付けたため、そのまま口をつぐんでしまったとされる。


持統天皇は、この一言が国を決めたと大変喜んだとされる。

公式記録の『続日本紀』には妃や皇后を持った記録は無い。皇后及び妃は皇族出身であることが条件であり、即位直後の文武天皇元年8月20日(697年9月10日)に夫人(ぶにん)とした藤原不比等の娘・藤原宮子が妻の中で一番上位であった。

夫人(贈太皇太后):藤原宮子(藤原不比等の女)

大宝律令 - Wikipedia

大宝律令に至る律令編纂の起源は681年まで遡る。同年、天武天皇により律令制定を命ずる詔が発令され、天武没後の689年(持統3年6月)に飛鳥浄御原令が頒布・制定された。ただし、この令は先駆的な律令法であり、律を伴っておらず、また日本の国情に適合しない部分も多くあった。


その後も律令編纂の作業が続けられ、特に日本の国情へいかに適合させるかが大きな課題とされていた。そして、700年(文武4年)に令がほぼ完成し、残った律の条文作成が行われ、701年(大宝元年8月3日)、大宝律令として完成した。日本の律令制度で律と令が同時に、制定直後に実施されたのは大宝律令をおいて他に例がない。大宝令11巻と大宝律6巻の律令選定に携わったのは、刑部親王藤原不比等粟田真人・下毛野古麻呂らである。

7世紀後半以降、百済の滅亡など緊迫する東アジアの国際情勢の中で、倭国は中央集権化を進めることで、政権を安定させ、国家としての独立を保とうとした。そのため、近江令飛鳥浄御原令を制定するなど、当時の政権は、唐の統治制度を参照しながら、王土王民思想に基づく国家づくりを進めていった。その集大成が大宝律令の完成であった。これにより、日本の律令制が成立したとされている。

この律令の制定によって、天皇を中心とし、二官八省神祇官太政官 - 中務省式部省治部省民部省・大蔵省・刑部省宮内省兵部省)の官僚機構を骨格に据えた本格的な中央集権統治体制が成立した。役所で取り扱う文書には元号を使うこと、印鑑を押すこと、定められた形式に従って作成された文書以外は受理しないこと等々の、文書と手続きの形式を重視した文書主義が導入された。


また地方官制については、国・郡・里などの単位が定められ(国郡里制)、中央政府から派遣される国司には多大な権限を与える一方、地方豪族がその職を占めていた郡司にも一定の権限が認められていた。

元明天皇 - Wikipedia

天智天皇の皇女で、母は蘇我倉山田石川麻呂の娘・姪娘(めいのいらつめ)。持統天皇は父方では異母姉、母方では従姉で、夫の母であるため姑にもあたる。大友皇子弘文天皇)は異母兄。天武天皇持統天皇の子・草壁皇子の正妃であり、文武天皇元正天皇の母。


藤原京から平城京へ遷都、『風土記』編纂の詔勅、先帝から編纂が続いていた『古事記』を完成させ、和同開珎の鋳造等を行った。

文武元年8月17日(697年9月7日)に息子の珂瑠皇子が文武天皇として即位し、同日自身は皇太妃となった。

息子の文武天皇が病に倒れ、25歳で崩御してしまった。残された孫の首(おびと)皇子(後の聖武天皇)はまだ幼かったため、中継ぎとして、初めて皇后を経ないで即位した。

この時期は大宝元年(701年)に作られた大宝律令を整備し、運用していく時代であったため、実務に長けていた藤原不比等を重用した。


和銅3年3月10日(710年4月13日)、藤原京から平城京に遷都した。左大臣石上麻呂藤原京の管理者として残したため、右大臣藤原不比等が事実上の最高権力者になった。


同5年(712年)正月には、諸国の国司に対し、荷役に就く民を気遣う旨の詔を出した。同年には天武天皇の代からの勅令であった『古事記』を献上させた。翌同6年(713年)には『風土記』の編纂を詔勅した。


715年には郷里制が実施されたが、同年9月2日、自身の老いを理由に譲位することとなり、孫の首皇子はまだ若かったため、娘の氷高(ひたか)皇女(元正天皇)に皇位を譲って同日太上天皇となった。女性天皇同士の皇位の継承は日本史上唯一の事例となっている。

夫:草壁皇子
 皇女:氷高皇女(元正天皇
 皇子:珂瑠皇子(文武天皇
   孫:首皇子聖武天皇

古事記 - Wikipedia

風土記 - Wikipedia

元正天皇 - Wikipedia

父は天武天皇持統天皇の子である草壁皇子、母は元明天皇文武天皇の姉。

日本の女帝としては5人目であるが、それまでの女帝が皇后や皇太子妃であったのに対し、結婚経験は無く、独身で即位した初めての女性天皇である。

天武天皇の皇太子であった草壁皇子の長女として生まれる。母は阿閉皇女(のちの元明天皇)。天皇の嫡孫女として重んじられたようで

霊亀元年9月2日、皇太子である甥の首皇子聖武天皇)がまだ若いため、母・元明天皇から譲位を受け即位。「続日本紀」にある元明天皇譲位の際の詔には「天の縦せる寛仁、沈静婉レンにして、華夏載せ佇り」とあり「慈悲深く落ち着いた人柄であり、あでやかで美しい」と記されている。歴代天皇の中で唯一、母から娘への皇位継承が行われた。これを女系継承とする考えもあるが、父は草壁皇子であるため男系の血筋をひく女性皇族間の皇位継承である。

養老元年(717年)から藤原不比等らが中心となって養老律令の編纂を始める。


養老4年(720年)に、日本書紀が完成した。またこの年、藤原不比等が病に倒れ亡くなった。翌年長屋王が右大臣に任命され、事実上政務を任される。長屋王元正天皇のいとこにあたり、また妹・吉備内親王の夫であった。不比等の長男・武智麻呂は中納言、次男・房前は、未だ参議(その後内臣になる)であった。

養老7年(723年)、田地の不足を解消するために三世一身法が制定された。これにより律令制は崩れ始めていく。

養老8年/神亀元年(724年)2月4日、皇太子(聖武天皇)に譲位した。譲位の詔では新帝を「我子」と呼んで譲位後も後見人としての立場で聖武天皇を補佐した。


天平15年(743年)、聖武天皇が病気がちで職務がとれなくなると、上皇は改めて「我子」と呼んで天皇を擁護する詔を出し、翌年には病気の天皇の名代として難波京遷都の勅を発している。

日本書紀 - Wikipedia

神代から持統天皇の時代までを扱う。

そもそもの編集開始の出発点は、天武天皇川島皇子以下12人に対して、「帝紀」と「上古の諸事」の編纂を命じたことにあるとされる。

乙巳の変(いっしのへん、おっしのへん)で中大兄皇子天智天皇)は蘇我入鹿を暗殺する。 これに憤慨した蘇我蝦夷は大邸宅に火をかけ自害した。 この時に朝廷の歴史書を保管していた書庫までもが炎上する。 『天皇記』など数多くの歴史書はこの時に失われ、「国記」は難を逃れ中大兄皇子天智天皇)に献上されたとあるが、共に現存しない。 献上されたことが事実であったとしても、天智天皇白村江の戦いにて唐と新羅連合に敗北しており、記紀編纂の余裕はなかったと推測される。既に諸家の帝紀及本辭(旧辞)には虚実が加えられ始めていた。そのために『天皇記』や焼けて欠けてしまった「国記」に代わる『古事記』や『日本書紀』の編纂が、天智天皇の弟である天武天皇の命により行われる。まずは28歳の稗田阿礼の記憶と帝紀及本辭(旧辞)など数多くの文献を元に、『古事記』が編纂された。その後に、焼けて欠けた歴史書や朝廷の書庫以外に存在した歴史書や伝聞を元に、さらに『日本書紀』が編纂された。

日本書紀』の編纂は当時の天皇によって作成を命じられた国家の大事業であり、皇室や各氏族の歴史上での位置づけを行うという極めて政治的な色彩の濃厚なものである。編集方針の決定や原史料の選択は政治的に有力者が主導したものと推測されている。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180308#1520505604

聖武天皇 - Wikipedia

即位前の名は首皇子(おびとのみこ)。

文武天皇の第一皇子。母は藤原不比等の娘・宮子。

文武天皇の第一皇子として生まれたが、慶雲4年6月15日(707年7月18日)に7歳で父と死別、母の宮子も心的障害に陥ったため、その後は長く会うことはなかった。物心がついて以後の天皇が病気の平癒した母との対面を果たしたのは齢37のときであった。このため、同年7月17日(707年8月18日、文武天皇の母である元明天皇天智天皇皇女)が中継ぎの天皇として即位した。和銅7年6月25日(714年8月9日)には首皇子元服が行われて同日正式に立太子されるも、病弱であったこと、皇親勢力と外戚である藤原氏との対立もあり、即位は先延ばしにされ、翌霊亀元年9月2日(715年10月3日)に文武天皇の姉である元正天皇が「中継ぎの中継ぎ」として皇位を継ぐことになった。24歳のときに元正天皇より皇位を譲られて即位することになる。


聖武天皇の治世の初期は皇親勢力を代表する長屋王が政権を担当していた。この当時、藤原氏は自家出身の光明子(父:藤原不比等、母:県犬養三千代)の立后を願っていた。しかしながら、皇后は夫の天皇亡き後に中継ぎの天皇として即位する可能性があるため皇族しか立后されないのが当時の慣習であったことから、長屋王光明子立后に反対していた。ところが神亀6年(729年)に長屋王の変が起き、長屋王は自害、反対勢力がなくなったため、光明子は非皇族として初めて立后された。 長屋王の変は、長屋王を取り除き光明子を皇后にするために、不比等の息子で光明子の異母兄である藤原四兄弟が仕組んだものといわれている。なお、最終的に聖武天皇後宮には他に4人の夫人が入ったが、光明皇后を含めた5人全員が藤原不比等県犬養三千代いずれかまたは両人の血縁の者である。


天平9年(737年)に疫病が流行し、藤原四兄弟を始めとする政府高官のほとんどが病死するという惨事に見舞われて、急遽、長屋王実弟である鈴鹿王を知太政官事に任じて辛うじて政府の体裁を整える。さらに、天平12年(740年)には藤原広嗣の乱が起こっている。乱の最中に、突然関東(伊勢国美濃国)への行幸を始め平城京に戻らないまま恭仁京へ遷都を行う。その後、約10年間の間に目まぐるしく行われた遷都(平城京から恭仁京難波京、紫香楽京を経て平城京に戻る)の経過は、続日本紀で多くが触れられている。詳しい動機付けは定かではないが、遷都を頻繁に行った期間中には、前述の藤原広嗣の乱を始め先々で火災や大地震など社会不安をもたらす要因に遭遇している。


天平年間は災害や疫病(天然痘)が多発したため、聖武天皇は仏教に深く帰依し、天平13年(741年)には国分寺建立の詔を、天平15年(743年)には東大寺盧舎那仏像の建立の詔を出している。これに加えてたびたび遷都を行って災いから脱却しようとしたものの、官民の反発が強く、最終的には平城京に復帰した。 また、藤原氏の重鎮が相次いで亡くなったため、国政は橘諸兄光明皇后とは異父兄にあたる)が執り仕切っていた。

譲位(太上天皇)した初の男性となる。

天平勝宝4年4月9日(752年5月30日)、東大寺大仏の開眼法要を行う。天平勝宝6年(754年)には唐僧・鑑真が来日し、皇后や天皇とともに会ったが、同時期に長く病気を患っていた母の宮子と死別する。

皇后:光明皇后(701-760) - 藤原不比等女(母は県犬養三千代)、母・宮子の異母妹


三笠の山にいでし月かも ―遣唐使阿倍仲麻呂

三笠山 - Wikipedia

奈良県奈良市にある御蓋山(みかさやま)のこと。標高297m、春日山 (奈良県)を参照。
奈良県奈良市にある若草山の別名。標高342m。三等三角点「三笠山」は若草山山頂にある。

三笠山/御蓋山(ミカサヤマ)とは - コトバンク

春日(かすが)大社後方の山。若草山の南にあり、春日山の西峰をなす。標高282メートル。若草山をさしていうことも多い。

春日山(かすがやま)とは - コトバンク

花山ともいう。

広義には御蓋山,花山および東側の芳山を総称して春日山という。

若草山の南隣に位置し、ふもとに春日大社がある。

春日山 (奈良県) - Wikipedia

花山(はなやま)もしくは西隣の標高283メートルの御蓋山三笠山・みかさやま)の通称。御蓋山を「(春日)前山」・花山を「(春日)奥山」と区別する場合もある。また、両山および香山(高山)・芳山などの連峰の総称としても用いられる。

古くから神奈備山として崇敬され、特に平城京遷都以後は朝廷から尊ばれた。例えば、遣唐使は出立に先立ち春日山の付近で天神地祇を祀って航海の安全を願ったことが知られている。768年(神護景雲2年)に藤原永手が祖父・不比等ゆかりの春日山のふもとに氏神である春日大社を創建した(ただし、近年では神社の遺構発掘の成果などから創建年次を同年以前とする説が有力となっている)。藤原氏の勢力伸長とともに春日山一帯に対する藤原氏の支配が強められ、841年(承和8年)には春日大社の神域として狩猟や伐採が禁じられた。春日大社の神体山とみなされるようになった春日山春日大社及び近接する興福寺の管理下に置かれ、春日山に自生する榊を根扱ぎして春日大社の神霊の依代である「春日神木」と称して、興福寺春日大社が強訴をする際には神木を押し立てた。


また、山岳信仰の修行場・祈雨の霊場として興福寺をはじめとする奈良の僧侶たちから重んじられ、春日山石窟仏など古代から中世にかけての多くの仏教遺跡が遺されている。また、神山として殺生禁断が守られてきたため、広大な原生林(春日山原始林)が今日まで残されており、古都奈良の文化財の一部として世界遺産にも登録されている。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180304#1520159964(奈良の御蓋山、或いはその山の後方、春日山と重ね合わせたに違いなく)