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将軍・吉宗(平岳大)が急病で倒れ、世継ぎ問題が発生。嫡男・家重派と次男・宗武派の真っ二つに幕閣が割れる事態の中、宗武が老中・松平乗邑(田村亮)へ宛てたと思われる密書を手にした奥女中が何者かに斬られ、そこに居合わせた下っ引きの子吉(山崎裕太)も大けがを負って昏睡状態となる。どこかへと消えた密書の行方を両派は躍起になって探すが、忠相(東山紀之)だけは今は争っている時ではないと幕閣の前で主張する。

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1870年(明治3年)に漢風諡号弘文天皇を贈られ、歴代天皇に列せられたが、実際に大王に即位したかどうか定かではなく、大友皇子と表記されることも多い。

壬申の乱の敗戦後に、妃・子女や臣下を伴って密かに落ち延びた」とする伝説があり、それに関連する史跡が伝わっている。

陵(みささぎ)は、宮内庁により滋賀県大津市御陵町にある長等山前陵(ながらのやまさきのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。遺跡名は「園城寺亀丘古墳」。

これとは別に、前記「伝説」の項目に挙げた各地をはじめとして、弘文天皇の御陵とされる墳墓が複数伝わっている。

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天武天皇の皇女で額田王を母とする十市皇女(従妹)を妃とされた。天智天皇8年(669年)頃、葛野王を産む。壬申の乱で父と夫が戦われたので悲痛な思いをされたことであろう。この葛野王はのち文武天皇即位にあたって重要な役割を果たされる。

皇紀1328年=天智7年(668年)2月23日、先帝・天智天皇は同母弟の大海人皇子(のちの天武天皇)を皇太弟とされた。

皇紀1331年=天智10年(671年)1月5日、第一皇子の大友皇子(のちの弘文天皇)を史上初の太政大臣に任じられる。

天智天皇としては皇太弟・大海人皇子が即位されたあと、次の天皇として大友皇子の即位を考えておられたものと推察される。

しかし大海人皇子としては、自分亡き後、自分の王子たちが何人もおられ、その状況下で甥の大友皇子を即位させることの困難さを想定しておられたのではないかとも思われる。そこで自らが出家してしまえば皇位を巡る紛争は避けられ、自身の王子たちの即位はなくなると思われた。その意味では大海人皇子は兄・天智天皇の系統が皇位を継いでいくことを想定して出家されたものと推察される。

大海人皇子が皇太弟を辞退されたので、この年10月17日、太政大臣大友皇子が代わって立太子される。太政大臣に任じられ、ここで立太子されたので後嗣は決定した。

皇紀1332年=弘文元年・天武元年(672年)7月23日、朝廷方(弘文天皇方)が乱に敗れ、大友皇子弘文天皇)は自害し崩御される。わずか半年の在位、宝算25歳であった。

前年冬の天智天皇崩御から壬申の乱に敗れ天皇が自害されるまで、その御世は約半年と短く、即位に関連する儀式を行うことはできなかった。そのため、以前は歴代天皇としては数えられておらず、明治3年7月になって弘文天皇追号されて天皇として認められた。

弘文天皇天皇として認めれば、臣下の者ですでに出家しておられた大海人皇子天皇に反逆し、天皇を滅ぼした上で自らが即位されるという、日本の歴史上唯一の例となる。

明治3年といえば明治天皇はまだ19歳であり、明治政府はこれをどう考えたのか疑問が残る。やはり即位しておられなかったと考えるべきではないだろうか。

先帝崩御後の混乱で天皇空位の期間が発生する例はこれまでもあったことである。皇位継承問題に関して、「壬申の乱」の歴史的意味には限りなく深いものがある。

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 天智天皇崩御後、672年、皇位をめぐるわが国古代最大の内乱「壬申の乱」が起こり、大海人皇子率いる吉野側が勝利したため、その即位が疑問視され、在位を認めない見解もある。少なくとも「日本書紀」は弘文天皇紀を記しておらず、同天皇を一代と見做していない。これは同紀の編纂にあたった舎人親王が父、天武天皇による皇位簒奪の印象を拭い去ろうと大友皇子即位を省いたとされている。

それでも、事実上大友皇子皇位を継いでいたとする様々な史料が残っている。「水鏡」や「扶桑略記」などでは、天智天皇崩御後の二日後に皇位を継いだとされている。また、徳川光圀も「大日本史」でほぼ同様の見方をしている。

 天智天皇には8人の妃がいたが、皇子が誕生したのは4人。だが、1人は8歳で亡くなり、残る3人のうちの最年長が大友皇子だった。しかし、大友皇子皇位を継ぐことは、当時の慣習からいえば困難だった。皇位を継承できる資格は、まず第一に皇族出身の皇后・皇妃を母とする皇子であり、第二は大臣の娘で后妃となっているうちに生まれた皇子でなければならなかった。この習慣は蘇我氏がつくりだしたものだ。だが、大友皇子の母は伊賀国山田郡の国造家の娘だ。他の2人の皇子も同じような身分の母から生まれていた。慣例に従えば、大友皇子皇位継承の資格がなかったのだ。
 にもかかわらず、天智天皇はこの大友皇子に深い愛情を注ぎ、皇位を託そうと思うようになった。大友皇子が聡明で、ひとかどの人物だったからだ。ところが、天智天皇には皇太子として弟の大海人皇子がいた。いうまでもなく、皇太子は次期皇位継承者のナンバー1だ。たとえわが子とはいえ、即座には後継者にできない。それには周囲の承認がいる。

そこで671年、大友皇子太政大臣に任ぜられた。太政大臣が官職として正式に登場するのはこれが初めてで、大友皇子に権威をつけさせるため、新しいポストを作ってまで大友を政治の中枢に置いたのだ。大友23歳のことだ。そしてこの前後に、障害となる皇太子の大海人皇子の地位を奪い、政界から排除する方向にあったとみられる。このときの大海人皇子の推定年齢は36歳だ。

こうして本来ならば最有力の皇位継承者である大海人皇子は働き盛りの年齢で、地位を奪われ、近江王朝の中で孤立し、大友皇子と敵対する立場に追いやられたのだ。大海人皇子は何の失政・失態を犯したわけでもないのに、理由もなく失脚させられたわけだ。

 天智天皇のこうした強引なやり方に反感を抱き、また非情な権力者、天智天皇を快く思わない連中は、当然ながら大海人皇子を支持したのではないだろうか。それが天智天皇自身の死後、朝廷から離反、多くの親・大海人皇子勢力をつくりだしていくことにつながったのではないか。そして、その決着点が「壬申の乱」での近江朝の敗北だったのだ。