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徳川家定 - Wikipedia

文政7年(1824年)4月8日、第12代将軍・徳川家慶の四男として江戸城で生まれる。家慶は14男13女を儲けたが、成人まで生き残ったのは家定だけであった。しかし家定も幼少の頃から病弱で、人前に出ることを極端に嫌った。


天保12年(1841年)に大御所・徳川家斉(第11代将軍。家定の祖父)の死後、(第12代将軍・家慶の)世嗣となる。しかし家慶は、家定の継嗣としての器量を心配して、一橋家の徳川慶喜を将軍継嗣にしようと考えたほどである。だが、老中・阿部正弘らが反対したため、結局は家定を将軍継嗣とした。


黒船来航の19日後にあたる嘉永6年6月22日(1853年7月27日)、家慶が病死したことを受け家定は第13代将軍となった。

家定は正室として鷹司政煕の娘・任子(天親院有君)や一条忠良の娘・秀子(澄心院寿明君)を迎えたが、いずれも早世し、近衛忠煕の養女・敬子(天璋院)との間にも実子は生まれなかった。このため、将軍在職中から後継者争いはすでに起こっていたが、家定の病気が悪化した安政4年(1857年)頃からは、それが激化する。


家定の後継者候補として、井伊直弼南紀派が推薦する紀州藩主の徳川慶福(後の徳川家茂)と、島津斉彬徳川斉昭ら一橋派が推す一橋慶喜徳川慶喜)が挙がり、この両派が互いに将軍継嗣をめぐって争った。


家定はこの間にも表舞台に出ることはほとんど無かったが、安政5年6月25日(1858年)、諸大名を招集して慶福(後の家茂)を将軍継嗣にするという意向を伝え、安政5年7月5日(1858年8月13日)に一橋派の諸大名の処分を発表するという異例の行動を見せた。家定が将軍らしい行動を見せたのは、これが最初で最後であった。


安政5年7月6日(1858年8月14日)、薨去。享年35。後を養子となった慶福改め家茂が継いだ。家定の死により、家慶の血筋は断絶した。

天璋院 - Wikipedia

薩摩藩島津家の一門に生まれ、島津本家の養女となり、五摂家筆頭近衛家の娘として徳川家に嫁ぎ、江戸幕府第13代将軍徳川家定御台所となった人物。


実父は薩摩藩主島津家の一門・今和泉(いまいずみ)領主・島津忠剛。母は島津久丙の娘・お幸。薩摩藩9代藩主・島津斉宣の孫である。


幼名は一(かつ、もしくは、いち)。本家当主で従兄・島津斉彬の養女になり本姓と諱は源 篤子(みなもと の あつこ)に、近衛忠煕の養女となった際には藤原 敬子(ふじわら の すみこ)と名を改めた(この際に篤の名は君号となり、篤君(あつぎみ)となった)。

徳川家茂 - Wikipedia

実父・徳川斉順は家慶の異母弟で、家茂は第13代将軍・家定の従弟にあたる。将軍就任の前は徳川御三家紀州藩第13代藩主。


徳川斉順清水徳川家および紀州徳川家の当主)の嫡男だが、父は家茂が生まれる前に薨去している。祖父は第11代将軍徳川家斉、祖母は妙操院。御台所は孝明天皇の皇妹・親子内親王(静寛院宮)。第13代将軍・徳川家定の後継者問題が持ち上がった際、家定の従弟にあたる慶福は徳川氏の中で将軍家に最も近い血筋であることを根拠に、大老で譜代筆頭の彦根藩井伊直弼南紀派の支持を受けて13歳で第14代将軍となった。

安政5年(1858年)、一橋派との抗争の末に勝利し、直後に第13代将軍・徳川家定も死去したために第14代将軍となった。慶福改め家茂(いえもち)はこの時13歳という若年であったが、第13代将軍・徳川家定の従兄弟に当たり、前将軍の最近親ということから、血縁を徳川家康まで遡らなくてはならない一橋慶喜を抑えて将軍に就任した。しかし、文久2年(1862年)までは田安慶頼が、その後は慶喜が「将軍後見職」に就いていたため、その権力は抑制されていた。

文久2年(1862年)に和宮と結婚。和宮親子内親王有栖川宮熾仁親王と婚約していたが、幕府の公武合体構想からの要請により熾仁親王との婚約を破棄し、和宮は徳川将軍第14代徳川家茂に降嫁した。文久3年(1863年)、老中水野忠精板倉勝静若年寄田沼意尊・稲葉正巳らが供奉し、3千人を率いて将軍としては229年振りとなる上洛を行った。3月7日に参内し、義兄に当たる孝明天皇に攘夷を約束した。また、この際に天皇に対して政務委任の勅命への謝辞を述べたが、これは18世紀末から要人や学者の間では言われてきたものの概念的な考えに過ぎなかった大政委任が朝幕関係の中で初めて公認化・制度化された。天皇一橋慶喜らと共に賀茂神社に参拝しているが、天皇が公式に御所を出たのは237年ぶりであった。その後天皇と共に石清水八幡宮へ参詣する予定であったがこれを病と称して欠席。源氏所縁の神前で、天皇から直に攘夷の命を下されるのを避けたともされている。将軍名代として石清水八幡へ供奉した一橋慶喜天皇がいる神前に呼び出されたが、急な体調不良としてその場を脱している。このことにより尊皇派諸士は家茂に反発し、将軍殺害予告の落首が掲げられた。江戸に陸路で帰還した慶喜の一行は、道中にて襲われている。朝廷は家茂の江戸帰還をなかなか許可しなかったため、老中格小笠原長行が軍艦と軍勢1400を率いて大坂に向かい、朝廷および攘夷派を威圧している。滞在3か月、家茂は道中の安全を考慮し、大坂より海路蒸気船を使い江戸に帰った。

慶応2年(1866年)、金の馬印を掲げ、大軍を率いて上洛した第2次長州征伐の途上、家茂は大坂城で病に倒れた。

家茂は死に際して徳川宗家の後継者・次期将軍として田安亀之助(慶頼の子、後の将軍家第16代当主・徳川家達)の指名を遺言としたが、それは実現されず、慶喜が第15代将軍となった。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180304#1520159964(春日祭は、賀茂神社葵祭石清水八幡宮の石清水祭とともに三勅祭の一つとされる。)

孝明天皇 - Wikipedia