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見つかったのは、「文武両道の政治を行う」という意味の「経文緯武」と彫られた縦・横9.2センチ、重さ2.7キロの銀印で、徳川家に伝わる資料などを管理する徳川記念財団が蔵を整理した際に、漆塗りの箱の中に残されていました。


東京大学史料編纂所保谷徹所長などが調べたところ、幕末に西洋諸国との外交が始まったあと、14代将軍の徳川家茂と15代将軍の慶喜が国の代表として外交文書などに使用していた印の実物と確認されました。


この印は安政5年、西暦1858年に結ばれた日米修好通商条約の批准書などに将軍の署名とともに押されたことが、残された書面から確認できますが、実物がどこにあるのかわかっていませんでした。


保谷所長は「今回見つかった印は、将軍が当時の日本の主権者であることを明らかにするために使われた。江戸時代に国を代表して押された印が残されていたのは非常に驚きで、大変貴重な発見だ」と話しています。


この印は、来月15日から新潟県立歴史博物館で開かれる「徳川の栄華」展で、来月30日までの期間限定で公開される予定です。

東京大学史料編纂所保谷徹所長によりますと、今回見つかった印は、安政4年、西暦1857年に幕府が製作を指示した記録が残されています。


その翌年の安政5年にアメリカやイギリスなど5か国との間に修好通商条約が結ばれ、翌安政6年に取り交わした批准書のうち、少なくとも日米、日英、日仏の書面には、将軍・家茂の署名とともにこの印が押されていることが確認できたということです。


また、文久遣欧使節を派遣した際の信任状にも使われているということです。次の慶喜の時期には、慶応3年(西暦1867年)にデンマークとの間に取り交わした条約の批准書や、同じ年に弟の徳川昭武を将軍の名代としてパリ万国博覧会に派遣した際の信任状などに使用されています。


この印が作られる3年前には、アメリカとの間で日米和親条約が結ばれていますが、印は使用しておらず、当時の老中の署名があるだけでした。


しかし、その後、西洋諸国とのさらなる外交を迫られたことから、外交諮問役だった林復斎の進言により、文書に使う正式な印を製作することになったということです。


保谷所長は「幕末に和親条約を結び、外国とのつきあいが始まるということで、外国の書簡に一定の印を押したほうがいいだろうと幕府が諮問をして印章を作らせました。作られて以降は、将軍が相手国に送る国書にはこの印が押されていると思います」と話しています。