読書法の一つに再読という方法がある。まず再読に堪え得る本を選ぶことが前提だ。再読法は何通りかある。体系性のない知識の本ならば読み落としを拾うための再読、文学ならば作品の内容を味わい直す再読、理論の本ならば論理思考を鍛えるための再読、技術を身につけさせる本なら実践しながらの再読だ。
— 渡辺知明 (@WATANABE_tomo) 2018年4月15日
「です・ます」の声の表現ができない人が大多数だ。会話の前半は相手に向けて語るのではない。相手に向けて語るべき内容を自分自身が確認するのだ。言葉のすべてを聞かせる人はうるさい。そして「です」「ます」という声の表現で、それまでのことば全体を相手に渡す。文末で渡せない会話は自己満足だ。
— 渡辺知明 (@WATANABE_tomo) 2018年4月16日
読書法の最高目標は「一読総合法」だ。学校教育でこの読み方に出会えた人は幸運だ。読書は一期一会、一度ですべてを汲み尽くすという構えと技術が必要だ。それでも読みきらないものは残る。そのとき再読となるが、これまた「一読総合法」の心がまえだ。渡辺知明著『文章添削の教科書』が参考になる。
— 渡辺知明 (@WATANABE_tomo) 2018年4月16日
福田恆存はせりふの基本は独白であると語っている。「すぐれた戯曲における大事なせりふはすべて独白と心得るべきで、それを直に相手に掛けて喋る事によって、それが自分の中から出て来たものであり、再び自分の中に戻るものである事を忘れてはならないという事です。」身につかない言葉は死んでいる。
— 渡辺知明 (@WATANABE_tomo) 2018年4月16日
コトバの能力というと文章が問題にされる。「文章を読む力がない、文章を書く力がない」という工合だ。だが、文章とは文から成り立つものだ。そもそも文章以前に文が読めないのだ。文の構造がつかめないのだ。学校教育に欠けているのは文法と論理学だ。渡辺知明『文章添削の教科書』はそこに注目した。
— 渡辺知明 (@WATANABE_tomo) 2018年4月16日
「考えてからしゃべる」と「考えながらしゃべる」とには大きな違いがある。多くの人は話しとは考えたことをまとめて話すことだと思う。だが、話しとは話す最中に考えられていくものだ。聞き手は話し手の考えが生み出される過程を共有しながら理解する。そこには話しから考えが生まれるドラマがある。
— 渡辺知明 (@WATANABE_tomo) 2018年4月16日