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 西郷決起の知らせに九州各地の士族たちが呼応します。


 熊本からは、熊本隊、協同隊、人吉隊、大分からは中津隊などが参戦しました。

 熊本隊は、池辺吉十郎(1838〜77年)率いる熊本士族ら1500余人で、2月23日に薩軍に加わります。


 協同隊は同県の士族結社「民権党」のグループで、平川惟一、宮崎八郎(1851〜77年、中国革命運動家・宮崎滔天の兄)らをリーダーに、政府打倒を期して総勢300人が参加しました。


 平川と宮崎は、台湾出兵の際も、熊本で義勇隊を組織して参戦。その後、中江兆民がルソーの「社会契約論」を抄訳した『民約論』をテキストに自由民権の教育活動などをしていました。


 宮崎(日向)では、延岡、高鍋、福島、佐土原、飫肥都城の各隊が兵をあげます。ほとんどが士族だった熊本諸隊に対して、日向諸隊は約半数が農兵で占められていました(小川原正道『西南戦争』)。


 こうしてみると、西郷を追って旗揚げした諸隊には、民権家やインテリ士族、農民らが自主的に参加していたのです。


 西南戦争は、単に反動派士族の抵抗とみられがちですが、民主的権利の拡大要求を掲げる諸隊の参加からして、ある種の「革新」性を帯びていたとの評価があります。


 高知県には、全国各地から民権家が集結していました。板垣退助主宰の自由民権結社「立志社」内では、薩軍の決起を受けて挙兵計画が練られました。


 これに対し、陸軍卿代理として軍政の要職にあった西郷従道(隆盛の弟)は、九州以外への戦火拡大を防ぐため、立志社をはじめ四国の動静に細心の注意を払っていました。ただ、薩軍不利の戦況が明らかになると、立志社の計画は尻つぼみになります。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180610#1528627898西郷従道
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180609#1528540780田中角栄
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180606#1528281558広尾学園
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180524#1527158722明治14年の政変
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20171222#1513939155(『未完の西郷隆盛』先崎彰容(新潮選書))
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20161213#1481625394自由民権運動の思想はその基礎を王政復古に求めるものであり、天賦人権論を基盤としたものである。)
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20160909#1473417417(高知出身の思想家、中江兆民は明治時代にフランスの哲学者ルソーの思想を日本などに紹介したことから、東洋のルソーと呼ばれ、自由民権運動の理論的指導者となりました。)

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20150809#1439116606(土台にあったのは、西郷の遺訓に沿った「日本の真の独立を目指す」ということです。)

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20140815#1408099476ハイエク社会主義ケインズ経済学の両方を批判していて、田中は、とくに人為的な信用によって一時的に景気を上昇させても、それによっておこる相対的な価格体系の混乱はやがて景気を反転させるという思想に共感していた。)

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20091222#1261463700(「先生又海舟翁の談に依て、西郷南洲翁の風彩を想望し、欣仰措(きんぎょうお)かず、深く其時を同じくせざるを恨みとせり。西郷南洲をして在らしめば、想うに我をしてを其材を伸ぶるを得せしめならん。而(しこう)して今や即ち亡し」)