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本連載では2人について詳述しないわけにはいかない。なぜなら2人は裕仁親王の、すなわち昭和天皇の帝王教育に深く関わることになるからだ。

東郷の名声を高めたのが、ハワイのクーデターと高陞(こうしょう)号事件だ。英国留学中に学んだ国際法が、寡黙な男の“武器”となった。

 1893(明治26)年に米国人農場主らがハワイ王朝を転覆させたクーデター事件で、日本政府は邦人保護を理由に東郷率いる浪速など軍艦2隻を派遣した。このとき東郷は、ハワイの監獄を脱獄して同艦に泳ぎ着いた邦人青年を保護、クーデター政府の再三の引き渡し要求を断固拒否する。軍艦内が治外法権であり、邦人保護の正当な権利があることを、熟知していたからだ。


 これに慌てたのは日本の外務省だった。米国との関係悪化を恐れるあまり、海軍を通じて東郷に引き渡しを指示。やがて日本の領事館員が邦人青年を引き取るべく、艦長室を訪れた。


 東郷は言った。


 「犯罪人であれ同じ日本人ではないか。その同胞が救助を求めてきたのを、おめおめ引き渡すのは心外だ。自分は彼を(クーデター政府の)獄吏に引き渡すのではない。(日本人である)あなたたちに引き渡すのである」

 翌年の夏、日清戦争が勃発。ここでも東郷は開戦早々、国際法をたてに果断な将器をみせる。

 明治27年7月25日、朝鮮半島中部西側の豊島沖で、日本海連合艦隊の軍艦3隻が清国海軍北洋艦隊の軍艦2隻と遭遇。宣戦布告を待たずに砲撃戦が交わされた結果、北洋艦隊の1隻が白旗を掲げながら逃走、残りの1隻は浅瀬に乗り上げて座礁、自沈した。


 この海戦の最中、清国兵を満載したイギリス商船が近づいてきた。日本としては厄介な事態だ。清国兵を通すわけにはいかないが、うかつに対応すれば世界最強の海軍国、大英帝国を敵に回しかねない。


 この難局の処理にあたったのが、浪速艦長の東郷だった。東郷はまず、商船を停船させて将校を送り、同船が英インドシナ汽船会社代理店所有の「高陞号」であること、清国兵1100人と大砲14門を朝鮮・牙山港へ輸送途中であること、船長のイギリス人は日本側の指示に従う意向を示していること−を確認すると、手旗信号で指示した。


 浪速「錨ヲ揚ケテ本艦ニ続航セヨ」


 だが、高陞号の船長は従わず、重大事態が発生したので面談したいと返信してきた。東郷が再び将校を送って調べさせると、船長以下イギリス人乗員は清国兵に脅迫されており、すこぶる不穏な様子である。


 東郷は船長に、イギリス人は海に飛び込み船から離れるよう指示した。


 浪速「船ヲ去レ」


 高陞号「許サレス 端艇(ボート)ヲ送ラレタシ」


 浪速「送リ難シ 直チニ船ヲ見捨テヨ」


 最初の停船命令からすでに4時間近く。事態はいよいよ切迫してきた。浪速の艦橋に立つ東郷は、高陞号の清国兵が刀剣をぬき、銃を構え、制御できない状態であるのを見て取ると、赤一色のB旗を掲げた。


 「危険ナリ」を示す国際信号旗だ。この旗が軍艦にひるがえれば、その意味はひとつしかない。しばしの猶予を与え、東郷は言った。


 「撃沈します」


 時に7月25日午後1時46分、浪速の砲撃を受けた高陞号は沈没する。その直前に海に飛び込んだ船長らイギリス人4人は救助され、清国兵の多くは射殺、もしくは水死した。


 日本の軍艦が英国の商船を撃沈した−との一報は、当初は日本政府を動揺させ、英国世論を激高させた。だが、東郷の措置が国際法に則ったものであることが分かると、英国世論は沈静化し、日本側は手のひら返しで東郷を称賛した。

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