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『どっこいパイプのけむり』

P194

「建ーーTAKERU」の初演は今秋十月十日。新装成った日本始まって以来の国立オペラ、「新国立劇場」のオープニングーー杮落としとして脚光を浴びる。

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[新装版]運命を創る: 人間学講話 - 安岡 正篤 - Google ブックス

活学としての東洋思想: 人はいかに生きるべきか - 安岡正篤 - Google ブックス

[新装版]人物を創る: 人間学講話「大学」「小学」 - 安岡 正篤 - Google ブックス

安岡正篤師が説いた 「義命」、「立命」の真理 | 情報 | Rosenkranz(ローゼンクランツ)

立派な人物は「心を利済(りさい)に尽くし」、「利」は鋭い、「済」は経世済民の済で救うという意味。「海内」は天下のこと。つまり、士君子たる者は一身の利害などにケチケチせず、世の中を治めよう、救おうと心を尽くし、天下に必要欠くべからざる人物となれば、天もまた自然にその人物を欠かせるわけにはいかなくなる。これが「立命」というものである。


いつの時代でもそうだが、人間というものは「命」の存在である。命の第一の意味は誰も知る命のこと。絶対のものである。なんで命があるんだとか、必要なんだとか、大切なんだということは意義をなさん。命というものは天地の創造である。必然・絶対のもので、何故という疑惑や打算を入れる余地のない第一原則である。天地万物の創造、あるいは変化・造化の働きで、必然のもので、動いてやまざるもの、少しもとどまることなきものである。その意味で「運命」という。


運という字は、動くという字であり、巡るという字である。つまり、運命とは天地自然のもので、存在するもの一切はこの支配に服する。そこですべての存在、命をもって動くものを「生命」というわけです。


ところが、鉱物から植物になり、動物になってくるに従って意識というものが生じてくる。植物にもある程度は意識がある。最近、植物学者の書いているものを二、三見たことがあるが、感覚というか、ある意味の意識を持っておる植物があるようだ。となれば、生きとし生けるものみな意識を持っておる。


そして、その意識の発達したものが「心」、さらに突っ込めば「魂」ということになる。つまり「生命」は性命、心、魂を持ったもの。好むと好まざるとにかかわらず、理由のなんたるを問わず、そういうものを超越した天地創造の中の決まりきった、疑うことを許されない一つの存在である。


そしてそれは、自分に始まったことではなく、天地自然と共にあるということで「宿命」ということになります。生命は運命であるとともに宿命である。しかもその宿命は、高等生物になればなるほど、心が発達して必然的に「いかにあるべきや」という「義」の問題が生じてくる。これを「義命」と言う。人間の生命は、宿命であると同時に意識・精神が発達して「義命」というものを宿す。そこで人間は宿命と同時に義命によって、よく天地の創造・造化に参じて、その命を造り、義命を立てていく。


これがいわゆる「立命」というものであります。つまり、自分はどんな運命、見方を変えればどんな宿命によって「かくのごとく存在しておるのか」、それを常に新しく創造進化の道に従って、いかに実践していくかというのが「義命」であり、それをいかに創造していくかというのが「立命」。運命の中に宿命があり、義命があり、立命がある。運命というものは、宿命であると同時に義命であるから、立命することができます。

日本の伝統精神: この国はいかに進むべきか - 安岡正篤 - Google ブックス

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180721#1532169940(イートニアンの先生に限らず、町で出会う普通の人でも、イギリス人は自国のことをよく知っていると感じました。自分を含め、日本人は自国のことをきちんと説明できない人が多いですよね。)

#多様性

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180731#1533033793

#ポストモダン#反多様性

LGBTである時点で「自分らしく」ない。

第276回 存在価値|塾長雑感

価値相対主義を否定する考えも相対主義の観点から許すのか、絶対的な正義などなく正義は多様であるから、ナチスの正義も肯定するのかなど、同じような問題です。


ニヒリストではない相対主義者にとって相対主義は絶対的なものです。したがって、相対主義を否定する言動に対しては批判的になります。それは自分が正しいと主張するのではなく、絶対的な価値を他者に強制することがおかしいと批判しているのです。

「それは自分が正しいと主張」せんがために、対立の奥にある絶対を否定しているのだ。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20080107#1199945158

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180602#1527936822

#疑似科学