後輩やイソ弁の書面を真っ赤にするボス弁には指導力がない.それなら自分で一から書けば良いわけで,いかに元の起案を活かしつつ,よいものにするのかが腕の見せ所だと思う.私はまだその域に達しないから,若い人は雇えない(~_~;)
— 福岡の弁護士 水野遼 (@mizuno_ryo_law) 2021年3月2日
先生はその刪修に当たって、「義命の存する所」と、「万世の為に太平を開かむと欲す」の二点を挿入されたほか、陛下の重いお言葉として文章についても手を入れられた。
わが国の前途に思いをめぐらすとき、私は一夜、沛然として大地を打つ豪雨に、心耳を澄ます思いであります
「沛然」とは雨が激しく降る様子を指す。
心耳と言う言葉。安岡正篤氏が、添削にあたり、「心」という字を入れたという。
作品としての詩の第一の要件は、
いかに統一生動しているか
という点にある。言い換えれば、能く内面的造化的であって、くだくだしい事件的外面的でないことである。
広瀬淡窓詩話に、父は生前俳句が好きであったが、こんな話を聞かされたことがある。ある門人が海鼠の句を作って師に見せた。
板の間に 下女とり落す 海鼠かな
師は一見して直に道具建てが多いと却下した。そこで弟子は沈吟して、これを、
板の間に とり落したる なまこかな
とした。師は、うん大分好くなった。しかしもう一息だとまた返した。苦吟の果てに、弟子が持って来たものは、
とり落し とり落したる なまこかな
となっていた。善哉、初めて師はこれを許したと。
一度、聡明叡智にしてよくその性を尽くす者、その間に出づるあれば、則ち天必ずこれに命じて、もって億兆の君師(くんし)と為し、これをして治めてこれを教え、もってその性に復らしむ(かえらしむ)。
然し我々は次第に天地人間から分隔して(これも実は偉大な創造分化なのであるが)己私に執着して誠に叛(そむ)き易い。その為に折角の性を傷(そこな)って天と断つの不明に陥った。
そこに諸々の悪が蔓(はびこ)る。「唯天下の至誠のみ能く性を尽くすことを為す」である。
内訟とは自分の煩悩を自分の良心に訟(うった)えることである。
「ただ悲しい」というタイプの批判は好きじゃない
— 山口真由オフィシャル (@mayuyamaguchi76) 2021年3月2日
感情に訴える非難により、一方的に自分を「被害者」と位置づける。そうすることで、同じ土俵の上で、どこがどう問題かを論理的に説明する責任から逃げてる
多用しないように気をつけないと!
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