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https://d1021.hatenadiary.jp/entry/2018/12/29/200210朝日新聞、CIAも見誤った「田中角栄」という政治家 “vs.エスタブリッシュメント”の確執)

野間易通 - Wikipedia

兵庫県北須磨高等学校を卒業。1990年、大阪外国語大学インド・パキスタン語学科卒業。

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西洋思想はいわゆる二元性を基底に持つ。二元性とは「分ける」ことであり、この分割は知性の性格です。

なぜ「分ける」ことが知性の性格かというと、知識は分けなくては成立しない。主と客を分けなくては、知ることができない。「理」に「ことわり」という訓を付けた日本人の感性はとても優れていたと感じます。

西洋思想が二元性を基底に持つということはつまり、西洋思想は知性を重視する。ただし、分けると必ず、対立・争いが生じます。そこに力の世界が開け、制するか制せられるかの世界となる。

そこで西洋では、山に登ることを「山を征服」するという。大海原を征服し、大空を征服し、宇宙空間を征服する。また、具体的な事柄を相対化・一般化・概念化・抽象化し、機械化・標準化することも西洋思想の得意とするところです。

日本語の「みずから」は古語では「身づから」であり、「おのずから」は「己づから」です。つまり、我が身から出るもの、我が身に在るものに由ることが「自由」であり、そこに対立はない。

自分が自分であることは、他者から縛られて在るのではない。松が松であることは、松が竹でないこと、そういう人間の判断とは関係のない話である。

東洋の自由は、「はじめから縛られていないのだから、それから離れるとか、脱するなどということはない」。よく混同される自由と放逸は、そういう意味においてはまったく逆の意味であり、抑圧により自制を失った放逸はむしろ、自由ではなく奴隷性の象徴です。

「からくりを用いる者は、必ずからくり事を行う。からくり事を行う者は、必ずからくり心を持つ。それでは、純真潔白さは失われてしまう」。

そうすれば、結局、精神や本性が乱れてしまい、道に載せてもらうことはできない。そこで、「私はその機械を知らないわけではないが、道に対して羞じて使わないのだよ」と。

人は機械を使うと同時に、機械に使われます。そして、機械を使うと、どうしてもより効率的な方法を求めるようになる。それは機械化・標準化の効用ではあるが、一方で物事を分裂させて、神性・自由を失わせる。

真の自由は、そういったところとは独立して存在する絶対的な個であるというのが、鈴木大拙の捉え方だと思います。

安岡正篤の名言 | 地球の名言

人間の自由は物質的満足の
得られることにあるのではない。

窮しても苦しまず、
憂えても意哀えざるにある。

禍福終始を知って
惑わぬことにある。

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窮するということ、心配事というものは、人間として常にあることで、世に処する以上、免れないことである。
しかしそれだからといって精神的にまいってしまうということでは、我々の人格の自由や権威はないわけであります。

戦前アメリカに行ったとき、大学の心理学者や精神分析の大家が集まって、学生や社会人の生活と精神状態についての調査報告を読んだことがあります。

その中の重大な項目として、我々が何か困難な問題にぶつかった時とか、失敗した時とかに、自分の心に動揺を生じはしないか。
どんな動揺を生ずるか。それをいかに処理し得るか。
そういう困難や失敗に直面して、心に不安動揺を生じても、それが直ちに自分の生活に響くか、響かないか。
心の平静を失って、そのため仕事も何も手につかなくなることがありはしないか。
たとえいろいろの不安困惑を感じても、それを抑え、それを処理し、平然として変わらずに仕事ができるかどうか。
これは人格を決定する、自己の価値をきめる問題として、重要な項目にしておりました。

https://d1021.hatenadiary.jp/entry/2018/12/29/200100(理想の男性像は、一緒にいて落ち着ける方がいいと思っております)
https://d1021.hatenadiary.jp/entry/2018/12/25/200130早慶戦で早稲田が勝った時に歌われるのが『早稲田の栄光』そして負けた時に歌われるのがこの『えんじの唄』です。)
https://d1021.hatenadiary.jp/entry/20130428/1367155251(この自由主義も、これを理論的に細かく論ずれば色々な系統もあり、議論もありますが、根本的に申しますと、前のデモクラシーと同じように、人間に人格の権威というものを認めて、われわれいやしくも人格を有する者である限り、一切他律的な力に強制圧迫されて心ならぬ行動をするというが如きことは屈辱であって、人間は飽くまでも自己の良心に従って、自己の判断、自己の人格の自主性に基づいて行動しなければならない。自分の厳粛な良心、至上命令に従って自らを律する生活をする。これが本当の自由というものである。なんら他の力に強制されて心にもない行動をするのではない、自らの中に第一原因を有して、自律的に行動し、自分で責任をとる、これが自由主義の原則であります。それならば古今東西に変わらない厳粛な真理であります。)

安岡正篤 - 自由の利く者 - 名言・座右の銘

いずれの社会も、ある時期に、その活力が衰えて組織機構の硬化することがある。
また一部の傷害や疾病のために全体の機能に障碍を生じて混乱に陥ることもある。
そういう時に硬化を救って新しい活を入れたり、混乱を収めて機能を回復することは至難の業である。
しかしそれが行われなければ、その社会は滅亡のほかはない。
その能く行われるのはどうしてもある中心人物の出現に待たなければならぬ。
撥乱反正、乱をおさめて正に反すとか、創業垂統、業を創め統を垂るというのはこういうことである。
この種の人物は従来の型に嵌った、世にありふれた人物、すなわち凡人ではいけない、どうしてもそういう凡人離れしたという意味で英雄でなければならぬ。
型に嵌るという点では、従来の支配階級、貴族や富豪になるほど、型が強いから、その階級の人間を一層凡にし易い。
きまりきってしまった、あるいはどうにも収まらない世の中を、何とか自由にしようというのであるから、そういう人間自らが自由の利く者でなければならぬ。
ところが人間は学校に入ればそこの教育の型に嵌められ、学問すれば、その思想の型に嵌められ、地位仕事につけば、その規定の型に嵌められる。
だから地位身分があり、仕事が定まり、教育学問が授けられた者ほど、却って拘束力が強くって、これを解脱する自由の力などは世の常の人々、凡人にとうてい持てるものではないのである。

https://d1021.hatenadiary.jp/entry/2018/12/22/200150(我が道を行けるのは一部のエリートのみ。大半の人間は先人の知恵を学び利用するコマとなる。受験は優秀なコマを選抜するための試験。いくら受験で優秀だといってもそれだけではコマとして優秀なだけ。)

ここで言ってる「秩序」は支配体制のこと。
公序は自由と、自由は平等と、両立する。

https://d1021.hatenadiary.jp/entry/2018/11/27/200154(ブリーフ裁判官「品性」を問われ…)

https://d1021.hatenadiary.jp/entry/20170726/1501065508(人はそれぞれ生まれた環境により人格形成に影響される。だのに犯罪の責任を環境ではなくその人に問うことができるのはなぜかという問いに、人格は環境に決定されるが、また人はその環境を決定することができ、「決定されつつ決定する」ものであるから、その個人の行為の責任をその個人に問うことができるのだ、という理論に一番納得させられました。)

日新・立命―安岡正篤墨跡集
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「日新」は、日ごとに新しくなる。また新しくする。
『易』の繋辞伝に「日新是れを盛徳という」。
これは、日一日ごとにわが学術を新たに進歩せしめることを盛徳というのである。

さらに、『大学』に、
「湯の盤の銘に曰く、荀に日に新たに、日々に新たに、又日に新たなり」とある。

立命」は、天から与えられた本性を全うして、そこなわないこと。
安心立命孟子・尽心の章に
「殀寿は貮ならず、身を修めて以て之を埃つは、命を立つるゆえんなり」
とある。

安岡先生の「立命」についての説明を補う。

自分がどういう素質能力を天から与えられておるか、
それを称して「命」と申します。
それを知るのが命を知る、知命であります。
知ってそれを完全に発揮してゆく、即ち自分を尽くすのが立命であります。

https://d1021.hatenadiary.jp/entry/20180801/1533120227(自分はどんな運命、見方を変えればどんな宿命によって「かくのごとく存在しておるのか」、それを常に新しく創造進化の道に従って、いかに実践していくかというのが「義命」であり、それをいかに創造していくかというのが「立命」。運命の中に宿命があり、義命があり、立命がある。運命というものは、宿命であると同時に義命であるから、立命することができます。)

https://d1021.hatenadiary.jp/entry/20080930/1222775752(才能が万人にすぐれておっても、自分の才能をひけらかさず、なるべく人の才能を用い、道徳が天下を蓋うに足るほどであっても、道徳に誇らず、万事控え目にしなければならぬ。天子は自分の道徳を用いず、自分の才能を用いず、臣下の道徳をもって自分の道徳とし、臣下の才能を用いて自分の才能とすべきである。大人物は皆そうであり、自分の道徳才能を用いて事をなさず、他人の道徳才能を用いて事を行うべきである。自分に道徳あり才能あることはもちろん偉大なることであり、尊敬すべきことではあるけれども、それよりも、人の道徳才能をもって自己の道徳才能とする方が、一層偉大なることであり、一層尊敬すべきことである。)
https://d1021.hatenadiary.jp/entry/20080930/1222775751(辞を修めてその誠を立つるは、業におるゆえんなり)

https://d1021.hatenadiary.jp/entry/20130905/1378379673(至極の大乗、思議すべからず。)