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 「言葉は真実を伝えるためのものだという前提が今まではあったが、その前提がなくなってきている。以前は「噓をつけば世の中機能しない」という考えのもとに何らかの歯止めがあった。言葉を公の場で発する時には新聞や本があり、色々な人が関わることでチェック機能も働いていた。今はチェック機能なしで全世界に情報を流せる。実はチェックが働いていた方が幸運な状態だったのかもしれない」

 「自分も含め世の中は本当にモラルを求めているだろうか。「世の中全体がうまく行った方が良い」「皆が幸福な方が良い」という視点に立てば、モラルを求めた方が良い。しかし今は、そう考える余裕のある人がどれだけいるだろうか」

 —そのような時代に教養として読むべき小説はありますか。


 「その問いが成り立たなくなっている。小説と教養がセットだった時代は過ぎた。教養とは、人間のことを知ろうとする試み。しかし今は「人間の中身なんて知ってもしょうがない」というシニシズムがあるように思う。これは健全なことかもしれない。実際に今、人間が地球に対して行なっていることを見ても、そんなに賢いとは思えないし」


 −そもそもどうしてセットだったのですか?


 「おそらく市民社会ができたことと小説が生まれたことがセットだった。王様がすべてを支配している社会では、民衆一人ひとりの個人性なんて誰も考えなくて、小説は成り立たないだろう。市民社会になって、一人ひとりが心の中に豊かな世界を抱えていて皆が違っているという前提ができると、人の心を分かろうとする気概が生まれる。そういったことに高揚を感じられた時代には、小説は教養としての役割があったと思う」


 −今はそのような時代ではないのですね。


 「人間を有り難がる姿勢が小説を支えていた。もうその前提が成り立たない。日本の場合、教養を身につけるという行為は明治の開国以来ずっとやってきた。そこには頑張れば物質的にも精神的にもより良くなれるはずだという大前提があった。今は、教養を身に付けても別に良いことはないことが露呈して、教養として小説を読むことは義務でもなんでもない時代になった。でも好きな人しか小説を読まなくなっているのはある意味で健全。ただ、好きな人が一定数いないと商品として成立しないので、そこは面白がりながら頑張りたい」

 「どの分野でも寡占状態が進んで、最終的には一番売れる一種類しかモノはなくなるんじゃないか。悪い冗談みたいだが、資本主義の最終形態は社会主義と変わらないのではないか。多様性が殺される流れがある。商品として成立しなければ、モノは存在しないに等しい時代。もちろんそういう事態は嬉しくなんかないので、なんとか変えたいと思う。例えば、友達付き合いは商品ではない。商品でなくても成り立つ生活の部分はある。そこを広げられればと思うが、別に妙案があるわけではない」

柴田元幸 - Wikipedia

東京大学名誉教授

現代アメリカ文学、特にポストモダン文学の翻訳を数多く行っている。

歌手の小沢健二は柴田ゼミ出身。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180819#1534674950(東大名誉教授の悔恨)
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180803#1533293467(同じ穴の狢)
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180624#1529837296(左翼は資本家の裏返し。)
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180606#1528281564ディストピア
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180129#1517222206(AIの未来には、リベラルアーツ人材が不可欠 —— マイクロソフトが主張)

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180721#1532169950
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