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 正田美智子は終戦までの3カ月間、戦火を逃れて軽井沢へ疎開し、軽井沢第一国民学校へ転入した。このとき同学年の生徒に当時の美智子のことを尋ねたが、勤労奉仕で桑の木の皮むきをしたエピソードはあっても、子供たちによくある集団での遊びは皆無だった。母・冨美子から「群れて遊ばないように」と厳命されていたという。集団に依存せず、自立して行動することを、母は教えたのだろう。大学時代、軽井沢会のテニスコートに通うようになった時も、「徒党を組まないこと」という母・冨美子の忠告は続けられていた。


 子供たちと群れて遊ぶより、自室にこもって父が東京から運んできた本の世界に夢中だったのかもしれない。IBBY国際児童図書評議会)の基調講演で、疎開中に読んだという、嵐のために倭建御子(やまとたけるのみこ)が乗った船が行手を阻まれ、后の弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)が入水して海を鎮める話を引きながらこう述べている。


「今思うと、それは愛というものが、時として過酷な形をとるものなのかも知れないという、やはり先に述べた愛と犠牲の不可分性への、怖れであり、畏怖であったように思います」

 戦争が終わると、美智子も夏になると軽井沢へやってきた。そしてテニスに夢中になっていたと、元JICA理事長の緒方貞子は綴っている。


〈今ほど賑わっていなかった軽井沢では、『町』のコートを生活の中心とする若いテニス・マニアの仲間たちがおりました。その中で、ひときわ一途に練習に励まれたのが、当時聖心の後輩でいらした皇后様でした。打っても打ってもボールを返してくる方。皇后様の忍耐強いテニスは、コートを走り回る早足の少女の面影とともに、今も目に浮んで参ります〉(『皇后陛下 美智子さま』)

お二人にとって軽井沢は単なる避暑地ではない3つの顔が見えてくる。その1つは、「少年少女の頃の自由な時代に戻れる」場所だということだ。


 元軽井沢町長の佐藤雅義は、「普通の人になれる場所」だと言う。


島津貴子さんの別荘に行って朝食を食べたり、昼は黒田清子さん夫婦と食事をしたり、来られたときは疲れているように見えても、帰るときは溌溂とした感じに見えます」

山本玄峰 - Wikipedia

1945年、終戦詔勅にある「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」の文言を進言したり、天皇を国家の「象徴」と定義する(象徴天皇制)よう発案するなど、鈴木貫太郎首相などの相談役なども努めた。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180819#1534674952
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180801#1533120227


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