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「去年、共同通信に日記を渡されて丁寧に頭から読みました。いつ報道されるのかと思っていたところだったんです」


 と話すのは作家の半藤一利氏。それはともかく、


「小林さんというのは侍従たちをサポートするような役回りで侍従の中でも天皇のすぐ傍にいた方ではありません。そのため他の侍従らが書いたものと比べると非常に客観的な日記だと思います」


 もう少し日記の内容を紹介しておこう。例えば75年11月24日。訪米後の会見に対する世評を気になさり、自信を失っておられる昭和天皇。小林侍従の励ましに、「涙をお流しになっておききになっていた」。


 80年5月27日。中国の首相との引見、つまり面会にあたり、「陛下は日中戦争は遺憾であった旨おっしゃりたいが、長官、式部官長は反対の意向とか。右翼が反対しているから、やめた方がよいというのでは余りになさけない」。


 87年7月19日。「ふらふらなさり始めたので、左右から支えたところその場におくずれになった」


 半藤氏は更にこう評する。


「そういった記述は、『人間・昭和天皇』を同情をもってしっかり表していました。ただ、昭和史を書き換える、大騒ぎするような発見ではありません」


 昭和天皇がいつ、誰から戦争責任を指摘されたのか、日記はそこに触れずじまいである。その前後の出来事を引いてみると……86年3月、衆院予算委員会共産党の代議士が「無謀な戦争を始めて日本を転覆寸前まで行かしたのは誰か」と追及。中曽根康弘首相がこれを強く否定する一幕があった。また88年12月には、本島等長崎市長が「天皇の戦争責任はあると思う」と発言後、右翼団体幹部に銃撃される事件があった。

 昭和天皇が公の席で戦争責任を認めたことはないが、


昭和天皇は敗戦の責任を感じ、3度、退位を考えていたことが様々な資料で明らかになっています」


 と解説するのは、現代史家の秦郁彦氏である。


「1度目は終戦の直後。戦犯が指名され、“戦争責任者を連合国に引き渡すのは忍びがたいので、自分が一人で受けて、退位でもして収めるわけにはいかんだろうか”と側近に伝えています。日本の元首であれば、敗戦国といえど配慮されますが、元首でなくなれば立場はただの人。戦争犯罪人として逮捕しやすくなり、場合によって処刑されることもあり得ました。木戸幸一内大臣は、そういった危険性を承知しており、陛下に“ご退位しない方がいいです”と伝えていました。2度目は東京裁判の判決の日。昭和23年11月12日に退位を考えていた昭和天皇に、マッカーサー元帥が当時の吉田茂首相を通して思いとどまってほしい旨を伝えています。3度目はサンフランシスコ講和会議のときで、この時も吉田の反対で退位はなりませんでした。昭和天皇は常に責任を取らなくていいのだろうかと考え続けてきたことが窺えます」

昭和天皇の戦争責任を巡る苦悩や平和への思いは、もっと早くから今上天皇に伝わっていたと思われます。今上天皇は皇太子時代、週に1度は昭和天皇のもとへ御参内され、ともにお食事などをして密にコミュニケーションを取られていました。ときには、現皇太子殿下が同行することもあったようです。昭和天皇今上天皇のことを『東宮ちゃん』と呼んでいたんですよ。また、昭和天皇今上天皇に対し、“大元帥であり国権の総攬(そうらん)者だった自分とは異なる天皇像を作り上げてくれる”と期待していたのだと思いますね。今回の日記は、昭和天皇がわが子に伝えていた思いが、改めて資料として出てきたと位置づけられるかもしれません」

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180901#1535798757保阪正康
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180823#1535021178(戦争責任「言われつらい」 昭和天皇、元侍従に心情吐露)
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180720#1532083507(団藤重光の主体性と間主体性の理論)
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180323#1521801382(昭和21年の書き初めで、皇太子が書いた言葉は「平和国家建設」。)
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20090521#1242889391(僕の顔をご覧になるなりに「トグちゃんのことをよろしくね」とおっしゃってね。)