【トンデモ歴史学者亡国論(20)★トンデモ歴史学者=呉座勇一の正体】 呉座勇一が、歴史研究には『 人生経験』はいらない、それでは『学問としての歴史学』はなりたたない 、とか自信満々に言っていたが、そこに 呉座勇一の馬鹿さ加減が良く出ている。しかも 、呉座勇一は、 https://t.co/lYtpPQcYqK
— 山崎行太郎『毒蛇山荘日記』 (@yamazakikoutaro) 2019年4月22日
しかも 、呉座勇一は、神戸大学教授=キムラカンの証言を引き合いに出している。キムラカンって誰だ? いずれにしろ、気の毒に、この連中は、自分が才能のない凡庸な三流学者であり、救いがたい 学者馬鹿だということにも気がついてない。
小林秀雄は、柳田國男について、柳田さんの学問(民俗学 )は、柳田さんの人生と深く繋がっている、柳田さんだけの個人的なものものだった。柳田國男の弟子たちは 、柳田さんの形骸(知識 )しか受け継がなかった、 と言っている。「 柳田國男の民俗学は柳田國男とともに死ななければならないような、そういう微妙な学問だった 」と言っている。たとえば、アインシュタインの相対性理論も同じだろう。アインシュタインの学問は、アインシュタインの『 人生経験』と無縁ではない。誰にでも共有出来る『 人生経験』ではない。後に、知識化され、理論化され、公式化され、高校生やサルにも分かる理論になるかもしれないが。
ところが、呉座勇一は、木村幹等を味方につけて 、こう言っている。
《 ・・・八幡氏の人生経験は八幡氏だけのものであり、他の人は継承できないからだ。仮に八幡氏の深い人生経験に基づく歴史解釈が正しかったとして、八幡氏が亡くなった後、私たちはどうやって歴史研究を進めれば良いのか。次の「天才」が現れることをお祈りでもするのだろうか。 ・・・ 》
大塩平八郎にしてもそうであります。彼があの幕末のまさに崩潰せんとする政治、その社会的現実の矛盾・頽廃に日夜苦悩しておったればこそ、これを読んで痛いほどこたえたのです。
学問というものは常にその時代と自己というものに切実に徹してやらなければ、それこそ空論というか、単なる知識・雑識・ディレッタンティズムになってしまいます。