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歴史の本質は「歴史学者」には分からない。呉座勇一は、歴史は「 歴史学者」が、一番分かっている、と言いたいらしいが、そうだろうか。史料や文献や古文書を読んでいるだけで「 歴史の真実」が分かるだろうか。「歴史学者 」には、表面的な歴史的事件や歴史的事実が分かるだけではないのか?「歴史の真実 」や「歴史の本質」は、それとは別物だろう。

たとえば、天皇天皇制の起源や秘密を、我々は「 歴史学者」に学ぼうとは思はない。民俗学、宗教学、人類学などによるアプローチに、我々は、教えられる。呉座勇一は、『 陰謀の日本中世史』などで、「 本能寺の変 」について、事件の首謀者=明智光秀の「動機 」などには、歴史学者は興味も関心もない、それは、歴史学のテーマではない、と言っている。

呉座勇一のいうことは、勘違いも甚だしい。歴史学者のために「歴史 」はあるのではない。我々は、「 歴史 」には興味を持つが、「歴史学者 」などには、さほどの興味を持たない。歴史学者は日陰の存在に過ぎない。つまり、我々が、「 歴史を深く知りたい」と思うのは、むしろ明智光秀の「 動機」の方ではないのか。歴史学者は関心を持たないかもしれないが、多くの日本国民は、そこに興味を持つ。豊臣秀吉徳川家康バテレンとの関係だけではなく、天皇との関係は(?)、本能寺の変に関わってはいないのかどうか(?)、など。それらの問題は、現代の我々の存在にも直結している。明智光秀には、織田信長を殺さなければならなかった、何らかの理由があったはずである。それは、何だったのか。その謎について、我々は、考えざるを得ない。史料や文献や古文書がないからこそ、ますます我々は知りたいのである。

「まだ思惟されたことのないもの 」( ハイデッガー)を考えることこそ、「学問」だろう 。柄谷行人は、『 マルクス その可能性の中心』で、マルクスは、「 まだ思惟されていない」問題を考えたからこそ、偉大なのだと言っている。

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