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昨日、ナツが死んでいたのはこの場所。玄関脇のフラワースタンドの下(右側の鉢との間の狭い空間)。

*昨日のブログをお読みになって弔意のメールを下さった読者の方々にこの場を借りてお礼申し上げます。ナツのいた14年間の日々は、自分の50代と60代前半にあたりますが、ナツの無邪気さ、可愛らしさにはいつも癒されておりました。別れは悲しいですが、別れのある人生は出会いのある人生でもあり、持続した楽しさは束の間の悲しみを補って余りあるものでした。

「カフェ・スリック」へ行く。

駅ビル東口の「くまざわ書店」で本と雑誌を購入。

『文学界』8月号。もちろん村上春樹の2本の短編を読むためである。

夕食は麻婆茄子、温泉玉子、冷奴、ゴボウのサラダ、味噌汁、ご飯。小鉢が多い。

デザートは葛切り。

『文学界』8月号の村上春樹「ウィズ・ザ・ビートルズ」を読む。語り手の「僕」は老人である。しかし、語られる物語は「僕」が高校生だったときと、それから18年後の35歳のときの話だ。つまり物語領域は青年期の両端で(ぎりぎり)収まっている。私は彼のデビュー作『風の歌を聴け』以来、リアルタイムで彼の作品を読んできたが、著者が中年になっても、そして老年になっても、物語の主役はおじさんや老人にはならない。せいぜい若いおじさんでとどまっている。語り手としての「僕」はこう言っている。

「歳をとって奇妙に感じるのは、自分が歳をとったということではない。かつては少年であった自分が、いつの間にか老齢といわれる年代になってしまったことではない。驚かされるのはむしろ、自分と同年代であった人々が、もうすっかり老人になってしまっている・・・とりわけ、僕の回りにいた美しく溌剌とした女の子たちが、今ではおそらく孫の二、三人もいるであろう年齢になっているという事実だ。そのことを考えると、ずいぶん不思議な気がするし、ときとして悲しい気持にもなる。自分自身が歳をとったことについて、悲しい気持ちになるようなことはまずないのだけれど。」

これはちょと変わった感覚ではなかろうか。普通の人は、そして普通の小説家も、自分自身が歳をとったということに敏感である。そしてそのことを嘆いてみたり、強がってみせたりする。あるいは努めて淡々と自身の加齢を受容しているように振る舞ったりする。

村上春樹の、正確には、この物語の語り手の「僕」のちょっと変わった感覚について、「僕」自身はこんなふうに説明している。

「かつての少女たちが年老いてしまったことで悲しい気持ちになるのはたぶん、僕が少年の頃に抱いていた夢のようなものが、既に効力を失ってしまったことをあらためて認めなくてはならないからだろう。夢が死ぬというのは、ある意味では実際の生命が死を迎えるよりも、もっと悲しいことなのかもしれない。ときとしてそれは、ずいぶん公正ではないことのようにさえ僕には感じられる。」

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