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〈母は日本人なんですが、パリに留学していた時期に父に出会って、結婚したんです。(中略)父ももともと、日本の文化や伝統が好きで、日本語を勉強してたんですね。母のアパートには電話がなかったから、下のカフェの公衆電話を使っていたら、そこに父が遊びに来て母に一目惚れして、カフェのおじさんが取りもってくれたそうです〉(「週刊文春」2011年5月5日・12日号)

 だが、この父親の職業ひとつをとっても、〈フランス企業の日本支社を立ち上げ、社長を務めました〉(「朝日新聞」05年7月24日付)という程度の情報しかなかった。彼がフランスの高級ファッションブランド「ウンガロ」の日本法人で代表を務めていたと報じられたのも結婚発表後のことだ。

 あるスポーツ紙は、結婚発表翌日に当たる8月8日付の紙面で滝川家の〈系図〉を掲載。

 そこには滝クリの母方の祖父として〈滝川勝三(神戸市議)〉との記述がある。さらに、曾祖母の欄には〈滝川イネ(婦人運動の草分け)〉という名前が書き込まれていた。

 また、さる女性誌の記事にも〈滝クリの母、美緒子さんは元神戸市議会議員の父と、日本の婦人活動の草分け的存在といわれる女性を母に持つ〉とある。

 祖母と曾祖母の違いはあれど主旨はほぼ同じ。

 実は、こうした情報は誰にでも入手できた。というのも、フリー百科事典サイト「Wikipedia」の滝クリのページに次のような書き込みがあったからだ。

〈祖父は元神戸市議会議員の滝川勝三。曾祖母の滝川イネは日本の婦人運動の草分け的存在〉

 先のスポーツ紙、そして女性誌の表現とほぼ一致する内容である。だが、確認作業を進めるうちに、意外な事実が明らかとなった。

 まず明治時代からの神戸市会史を繙いても「滝川勝三」という神戸市議の名前は見当たらない。「滝川イネ」も同様で、「婦人運動の草分け」とされているのに著作の類は見つからず、新聞記事で紹介された形跡すらないのだ。

 それどころか、本誌(「週刊新潮」)の取材では、滝クリの祖父母として全く別の名前が浮上したのである。

 そこで、滝クリの事務所に真偽を質したところ、「元神戸市議の滝川勝三」や「婦人運動家の滝川イネ」が親族という点については、

「事実ではありません」

 他方、本誌の取材で判明した祖父母の名前には、

「事実です」

 との回答があった。

「クリステルの祖父の名前は滝川堅治で、神戸市議などしていません。それに、義母も婦人運動にはかかわっていない。どこから出たのか分かりませんが、全く根も葉もない話ですよ」

 そう語るのは、現在69歳になる滝クリの母方のおばである。ちなみに、彼女の娘はフリーアナの目黒陽子で、息子は俳優の滝川英治。彼女が暮らす大阪府内の瀟洒な一軒家は、もともと滝クリの祖父が建てた家だ。

 いま、初めて明かされる滝川家のファミリーヒストリー。まず、堅治氏とはどんな人物だったのか。

「北海道出身の義父は東京の大学に進んで薬学を学びました。その後、武田薬品工業に就職し、札幌の研究所で働いていたそうです。転勤で東京や大阪を行き来した後、義父は大阪にこの家を建てました。実は、亡くなった私の夫(滝クリのおじ)も同じ会社に勤めていたんですね。だから、クリステルが武田薬品アリナミンEXプラスのCMに出演すると決まった時は家族みんなで大喜び。義父や夫の勤めていた会社とクリステルにご縁があったことが本当に嬉しくて。しかも、CMを担当して下さったのは武田薬品で義父の部下だった方でした」

 このおばによれば、滝クリの母親・美緒子さんは、

「京都の大学に進学してからパリのソルボンヌ大学に留学しました。そこで旦那さんと出会ったんです」

 そして、パリで生まれた滝クリが3歳の時、一家は神戸へと移り住んだ。

「大阪と神戸はそう遠くないので、幼い頃のクリステルはこの家にもよく遊びに来ていたようです。義母にはとても可愛がられていましたね。義母は言葉遣いが丁寧でとても品の良い人。クリステルはそれを受け継いだのだと思います」

 滝クリの祖母は婦人運動ではなく、若い頃から華道を嗜み、かつては自宅で教室も開いていたという。滝クリは15年末にこの祖母とのツーショット写真を自身のブログに載せている。それから4年弱の歳月が経過したが、

「義母はいまも存命で、98歳になります。ただ、脳梗塞を患って入院しているんです。元気な頃にクリステルの結婚を報告したら間違いなく喜んだろうねって、家族も残念がっています」

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 菅氏が、後見人の藤木氏を切ったという構図になるが……2人に何があったのか。

「菅とはかれこれ1~2年は会っていませんよ」

 と藤木氏が言う。

「最後に会ったのは2年前かな。向こうから電話がかかってきて、“会長、お昼ごはん、ごちそうしてくださいよ”って。“おう、来い来い”って。そんで会って飯食ったのが最後だね」

 と言うのである。

「何でって、それは用がないから。必要がないからですよ。用がないから。俺、いま麻生さんや二階さんと仲が良いんだ。それに今会うと、俺はカジノに反対、菅は賛成だから、鋭い話になるでしょ。だからダメなんだ。きっと死ぬまで会うことはないんじゃないかな……」

“決裂”の事情について、藤木氏は多くを語らないが、

「カジノを巡って、意見の食い違いがあったのが一因だったと思います」

 と言うのは、両氏を共に知る、さる知人である。

「2年ほど前までは、藤木さんはカジノ賛成だったんです。菅さんがカジノの件を説明し、藤木さんも乗り気になってしまったんです」(同)

 実際、その頃、藤木会長は新聞や雑誌の取材に、「オレがカジノをやる!」と明言している。

「しかし、カジノってそんな簡単に出来るものではない。ノウハウと資金力のあるアメリカのカジノ企業のようなところでないと難しいんです。また、IRは国際基準に基づいて規制が行われ、コンプライアンスのチェックが非常に厳しい。どうも無理らしい、と気が付いた藤木さんは菅さんに不信感を抱くようになったのではないか。その頃から依存症のことを勉強しはじめ、“カジノ反対”を唱えるようになりました」(同)

 他方の菅氏も同様だ。

「菅さんは藤木さんの周辺の人脈が気になっていたんです。藤木さんの周りにはいろんな人が集まるでしょ。その中には清も濁も様々な人がいる。彼がカジノをやろうとしていた人たちの中にも、清濁両方の人がいた。その頃から菅さんは、藤木さんのことが話題になっても“あの人の話はいいですよ”とよそよそしい物言いになりましたね」(同)

 加えて、菅氏を巡る“事情”の変化もあったのかもしれない。戦後最長の安倍政権下、それを支える菅氏も在職期間歴代1位の大官房長官に。「令和おじさん」効果で、ポスト安倍No.1とも目されるようになった。この秋には、カジノ開業地選定の具体的作業が始まる。立候補へのデッドラインが迫る中、古い後見人なんて……という側面もあったのか。

 この点、当の藤木氏に聞いてみると、

「邪推はやめてくれ」

 と一笑に付すのだが、菅氏のことを振ると、

官房長官になっちゃったからね。昨日まで一緒にお茶飲んだり、ところてん食ってた間柄だったのが、ヘッポコ市会議員から国会議員、官房長官となった。だから、昔を知ってた連中からすれば、“権力ボケ”と見られちゃうわけ……」

 と思いがにじみ出る。

「菅が官房長官になったあたりかな。横浜港のポートチャージが他より高いという問題があって、俺が何とかしようと動いた。で、菅に“高いんだよ”と言うと、“そうですか”と。で、調べて熱心にやってくれた。“会長、あれはこういうことで、こうなりそうで”“悪いなあ、菅君、こんなことでごめんな”って話は何度したかわからない。週に2~3回は本人から電話がかかってきたかな」

 もっとも、

「菅だって可哀相だよ」

 とフォローも忘れないのが藤木氏だ。

「安倍みたいなのにくっついてちゃ。菅は安倍の腰巾着だ。その安倍はトランプの腰巾着……。トランプとカジノ業者が火元だってわかるんだよ。菅もとばっちり、俺もとばっちり。横浜の人はみんなとばっちりを受けているんだよ。4年前かな、菅に“20分でいいから議員会館に来てくれ”と言われて、行ったらカジノについて説明されたことがある。その時に“あんたのところにたくさん来ているでしょ、人が”って聞いたら“いやいや来ていません”と。だからね、この話は下から来ているんじゃないと思った。上から来ているんだよ。アメリカからね」

 そして、

「いま、菅の頭の中にあるのは、地方自治体の経済への貢献とか、観光立国ではない。理屈と絆創膏はどこでもくっつくんだよ。観光立国なら何でも一緒じゃないですか。横浜なんていま客船がバカバカ入っているんだから、いまさらカジノにお世話になる必要はない、これは国の安全保障の問題で、アメリカとの関係が菅の念頭にあるんだと思う」

 当の菅氏にこれらの発言について見解を求めたが、「回答いたしかねます」とのことだった。

 とまれ、カジノ誘致を決めた横浜市。賽は投げられた。今後、会長はどうするのか。

「もちろん許さないよ。歳も歳だし、殺されようが何しようが俺は反対で死んでいく。とにかく横浜の港ではダメだ。埠頭で汗を流し、死んだ人間もいるんだから。数えきれないほどの人が死んでいるこの場所で、ブランデー飲みながら博打打たれちゃたまんねえ、ってこと。俺は一人になっても最後までやるよ」

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