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緒方さんの葬儀は29日午後、都内の教会で営まれ、親族や生前、緒方さんと親交のあった人たちが参列し、緒方さんと同じ聖心女子大学を卒業し親交を続けてきた上皇后さまも弔問されました。

緒方貞子さんは昭和2年(1927)に東京で生まれ、外交官の父親の転勤で幼少期を海外で過ごしたあと、聖心女子大学を卒業してアメリカの大学や大学院で学びました。

その後、日本の大学で教べんを取っていた際に国連の代表団に加わり、昭和51年(1976)には日本の国連公使に女性として初めて就任し、平成3年(1991)から平成12年(2000)までの10年間は日本人として初めてUNHCR国連難民高等弁務官事務所高等弁務官を務めました。

緒方さんの在任中には旧ユーゴスラビアやアフリカのルワンダなど世界各地で相次いだ内戦や民族紛争、虐殺により大量の難民が発生し、緒方さんはみずから現場に足を運んで支援の陣頭指揮に当たりました。

また1990年代に多くのクルド人がトルコに入国を拒否された際には、UNHCRとして国外に逃れた難民だけでなく国内で行き場を失った避難民も保護の対象とするという新たな方針を打ち出し、国際社会全体で困難な状況にある人々を保護すべきだと訴え続けました。

こうした緒方さんの訴えは国家主体の安全保障という概念から人間一人ひとりの安全の確保を中心に据える「人間の安全保障」という理念に結実し、2001年には国連に「人間の安全保障委員会」が設立されて緒方さんみずからが共同議長を務めました。

緒方さんはその後もさまざまな立場から生涯にわたって紛争や貧困などの困難に直面する人々の支援に尽くしました。

緒方さんは先月、92歳になったばかりで、緒方さんを「恩師」と慕う国連の軍縮部門の中満泉事務次長は「ただただショックです。いちばん弱い立場の人たちに常に寄り添った真のリーダーでした」とその死を悼んでいました。

またコソボのレオン・マラゾーグ駐日大使は緒方さんが旧ユーゴスラビアコソボ自治州での民族紛争による難民の支援に尽くしたことに言及し、「世界から緒方さんが失われたことを知り悲しみに暮れている。コソボは最も困難な時期にわれわれのそばにいてくれた緒方さんのことを忘れません」と追悼しました。

緒方さんが晩年、力を注いでいたのがアフガニスタンの復興です。

アフガニスタンでは、旧ソビエトの侵攻をきっかけに大量の難民が発生しており、国連難民高等弁務官事務所高等弁務官時代から関心を抱いてきたといいます。

同時多発テロ事件を受けてアメリカの軍事作戦が始まった2001年には、日本政府の総理大臣特別代表に就任。その際、「アフガニスタンは難民問題の中で、いちばん積み残しになっている問題だ」と決意を述べ、復興に向けて日本が中心的な役割を果たすことの重要性を強調しました。

2002年には、東京で初めて開かれたアフガニスタン復興支援会議の共同議長を務め、難民の帰還や地雷の除去、それに女性の地位向上などを重点分野とする日本の支援策を取りまとめました。

一方、アフガニスタンをたびたび訪問し、日本政府が進めるインフラ整備をはじめとした復興支援プロジェクトの進捗(しんちょく)状況を視察するなど、「現場主義」を徹底しました。

アフガニスタンは、国際社会が紛争を解決して安定に向かわせる1つのテストケースであり、失敗させるわけにはいかない」と強い思いを抱いていた緒方さん。しかし、反政府武装勢力タリバンが台頭する中、アフガニスタンは治安の悪化に歯止めがかからず、復興に向けた道のりは遠いのが現状です。

緒方さんの葬儀は29日、大田区の教会で営まれ、親族や生前、親交のあった人たちが緒方さんの死を悼みました。

葬儀の前には緒方さんの出身大学の聖心女子大学を卒業し、緒方さんと親交を続けてきた上皇后さまも弔問されました。

緒方さんと20年来、交流があったという織田和雄さんは「仕事で忙しくしているのにとても気さくな方でした。最後に話をしたのは5か月前にテニスクラブで会った時でした。その時、『またテニスをしましょう』と話していたのに実現しなくて残念です。また一緒にテニスをしたかったです」と話していました。

また、親類だという女性は「母親が病気で入院した時にお見舞いに駆けつけてくれ、とても心の優しい方でした」と話していました。

緒方貞子さんがUNHCR国連難民高等弁務官事務所高等弁務官を務めた1990年代は東西冷戦の終結を受けて世界各地で抑えられてきた民族や宗教の違いによる対立が噴き出して内戦や地域紛争が相次ぎ、大勢の難民や避難民への対応が深刻な国際問題となっていました。

緒方さんが就任した1991年にはイラク北部から避難した大勢のクルド人がトルコへの入国を拒否され、その支援をどうするかが緊急の課題となっていました。

緒方さんは、この時、支援の対象を国境の外に出てきた難民のみに限っていたそれまでのUNHCRの方針を変え、国内で行き場を失った避難民も保護することを決断し、この決断がその後の難民や避難民への支援の在り方の転機となったと評価されています。

また、旧ユーゴスラビアコソボ自治区で起きた民族紛争で大勢の難民が国を逃れた際には、「コソボでは住民の悲惨な状況が続いており、難民の数は今後も爆発的に増える可能性がある」として、各国が結束して対応に取り組む必要性を訴えました。

また、1994年に東アフリカのルワンダで80万人以上が虐殺された時には、その後、隣国のコンゴ民主共和国に押し寄せた100万人規模の人々のため、UNHCRとして難民キャンプを立ち上げて支援にあたりました。

この時は難民の中に虐殺に関わった人も含まれていたため、加害者を支援するかどうかが問題になりましたが、UNHCRは人々を区別することなく食料などの支援を続けました。

緒方さんは20年後の2014年、東京で行われた追悼式に出席し、「平和な世界は人々の努力の上に形づくられるものです。ルワンダの人々の20年間の努力から学ばなくてはなりません」と振り返って、ルワンダでの悲劇を教訓にするよう国際社会に呼びかけています。

緒方さんは在任中、たびたびみずから世界各地の紛争地や難民キャンプに足を運んで困難な立場に置かれた人たちを救うための最善の選択を追求しながら、支援の陣頭指揮にあたりました。

およそ20年前にアフリカのタンザニアで難民キャンプを視察した際、緒方さんは炎天下のなか、精力的にキャンプを回って難民の人たちの状況をつぶさに視察していました。

そして食事の際には貴重な食料を提供してくれた地元の人たちに感謝の意を示して食事を取り厳しい環境の中で生きる人々に寄り添う姿勢を強く感じさせました。

こうした緒方さんの姿勢は国家主体の安全保障という概念から人間一人一人の安全の確保を中心に据える「人間の安全保障」という理念に結実し、2001年には国連に「人間の安全保障委員会」が設立されて緒方さんみずからが共同議長を務めました。

緒方さんは2009年4月のNHKのインタビューで「若い方たちが次の時代の中心になるので、役に立つような仕事をどんどんやっていただきたいと期待しています。広い世界で何が起きているのかよく理解していただきたいと思います」と話し、若い世代への期待を語っていました。