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20年代後半のころ、国会内の食堂で、女性速記者仲間と食事をしていたら、給仕さんがお盆に山盛りのミカンをテーブルに持ってきて、ぶっきらぼうに『ほれ、あっち、あっち』と目配せしたんです。奥の方で中曽根さんが『食べろ、食べろ』という風に口を動かして、ニコニコしながら手を振っていたんです。お互い顔見知りではありましたから、食堂に注文して届けてくれたんです。私たちは『中曽根さんからの差し入れだ!』なんて小躍りして、おいしくいただいた覚えがあります。いつも勇ましい発言をして、ちょっと怖い印象もあったけど、根は優しい人なんだな、と感激しました」

 事程左様に、議場の内外を問わず、彼らは一人の人間として、国民の代表たちをしっかり見つめていたのだ。こういった記憶の断片に、私の心が躍った瞬間は数え切れないほどだった。

 さて、中曽根は、こうした速記者たちの姿を今でも覚えているだろうか。

 記録的な猛暑がようやく去り、一気に冷風が肌を撫でるようになった平成22年9月下旬、東京都内にある中曽根の事務所を訪れた。背筋を真っ直ぐに伸ばし、なお矍鑠(かくしゃく)とした「往年の青年将校」が、目の前に座っていた。(注・当時92歳)

「……ああ、言われてみれば、そういうことが20年代の終わりごろに1度、あった気がしますね。『おあがんなさい』って言ってね」

 例の「ミカン」の話を切り出すと、微笑を浮かべながら、間をおかずに「覚えている」と答えた。

「いつもお世話になっていると思ってね。私の発言は速くて、難しい言葉も使うものですから、間違えないように速記するのは難しい作業だと思っていました。『ご苦労さん、ありがとうございました』という意味を込めたのです」

 若き女性速記者たちの熱い視線を意識してはいなかったようだが、それでも、些細とも思われる場面を明確に記憶していたことに私は驚いた。

 中曽根は、昭和22年の衆院選初当選のころから、「大衆の耳に伝わるように、常に分かりやすく、印象的な言葉を使って発言する」ことを心がけていたとも話した。議場での立ち居振る舞いについては、本書第2章の元速記者の証言にも登場した「反骨の政治家」斎藤隆夫(注・戦前、軍部の政治介入に対して議会で「反軍演説」を行ったことで知られる)を見習い、「悪びれず、姿勢を正して堂々と」振る舞うことを信条としていたという。〉

 昭和の宰相は、平成、令和とは一味違ったようだ。