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立憲民主党、国民民主党共産党社民党の野党4党は幹事長・書記局長らが会談し、総理大臣主催の「桜を見る会」をめぐって、対応を協議しました。

そして、いわゆる「オーナー商法」で多額の資金を集めて経営破綻した企業「ジャパンライフ」の幹部を安倍総理大臣が招待したのかどうか確認しようとしない政府・与党の対応は不誠実で看過できないとして、29日以降、衆参両院のすべての国会審議に応じない方針を改めて確認しました。

これに対し与党側は、12月9日に会期末を控え、野党側の出席が得られなくても29日に予定されている審議は行う構えで、衆議院の内閣委員会などでは立憲民主党などが欠席する中、自民・公明両党と日本維新の会が出席して質疑が行われました。

一方、参議院では、自民党の末松参議院国会対策委員長立憲民主党の芝参議院国会対策委員長と会談し、本会議への出席を求めました。

また、自民党の森山国会対策委員長立憲民主党の安住国会対策委員長が会談し、安住氏は、政府から一定の回答が得られる見込みだとして審議に復帰する考えを示しました。

官房長官は記者会見で、野党側が「桜を見る会」をめぐる政府・与党の対応を受けて国会審議に応じていないことについて「国会で決められることだろう。政府としてはできるかぎり丁寧にお答えさせていただいた」と述べました。

一方、「桜を見る会」の招待区分の番号について、過去の担当者に聞き取りとりを行うなどして調査しないのか問われたのに対し「番号は会の終了をもって使用目的を終えていることから、これらの情報は保有していない。平成27年当時のことで、時間もたっており、お答えするのは難しい」と述べました。

また、すでに破棄した招待者名簿の電子データは内閣府のサーバーに保存していたことを明らかにしたうえで、「詳細は承知していないが復元できないと聞いている」と述べました。

自民党の森山国会対策委員長は記者団に、「お互いに合意して本会議を立てているので、合意できたことが実行に移されないのは国会運営上いいことではない。野党側には野党側の事情があると思うので、お互いの立場を尊重し合いながら、正常な国会運営ができるよう努力したい」と述べました。

自民党の末松参議院国会対策委員長は記者団に、29日の参議院本会議について「開会する予定だ。野党側に参加してもらえないのは大変残念で、引き続き出席を要請したい」と述べました。

また「桜を見る会」への対応については「政府に努力してほしいと求めている」と述べました。

自民党の世耕参議院幹事長は党の参議院議員総会で「国会も終盤に入り、波が高くなってきた。野党側は審議拒否の姿勢を示しているが、国民生活や国の経済に密接に影響を与える法案は、しっかり本会議を開いて迅速に採決するのが国会の責務だ」と述べました。

また「来週は今の国会の最大の懸案である日米の貿易協定が山場を迎えるが、参議院としては、国の決算についてもすべての大臣が出席して本会議を開かなければならない。野党側にしっかり呼びかけたい」と述べました。

立憲民主党の安住国会対策委員長は記者団に、「政府側から回答を得られるということなので、衆議院参議院も再開して、追及するための審議をしてきたい。なぜジャパンライフの幹部を安倍総理大臣や官房長官の枠で招待したのかについて、経緯を徹底的に追及したい」と述べました。

立憲民主党の福山幹事長は記者団に「政府側の資料の事実関係すら認めず、招待者名簿の電子データが復元できないという根拠も示さない対応には理解できない。疑惑はすべて安倍総理大臣に直結しており、反社会的勢力やジャパンライフの幹部が誰の枠で推薦されたのかを明らかにすることが野党の責任だ。この姿勢を崩すつもりはない」と述べました。

また、衆議院の委員会で野党側が欠席する中、質疑が行われていることについて「遺憾だ。何でも力づくでやればいいと思っている安倍政権の傲慢な態度があらわれている」と批判しました。

公明党の山口代表は党の参議院議員総会で「国会は与野党の攻防の動きが出てきて、波が高くなっていく。よく見極めながら、ほころびのないようにするため、衆議院参議院の連携などを密にしていくことが重要だ」と述べました。

また「昨夜、安倍総理大臣と会談し、会期末に、政府・与党で緊張感を持ってしっかり当たっていくことを確認した。予算編成や税制も重要な責務なので、国民の期待に応えられるものに仕上げていこうと話をした。これから残りの重要な時間を大切にしながら、臨んでいきたい」と述べました。

共産党の小池書記局長は記者団に、「政府側の資料の内容の真偽すら認めないのは、あまりにも不誠実だ。ジャパンライフの当時の会長が安倍総理大臣や総理大臣官邸の推薦枠だということだけを認めればいいのに、この点を認めないのでは審議ができない。内閣の不信任に値する政権であることは間違いなく、内閣総辞職を求める」と述べました。

公明党の斉藤幹事長は記者会見で「国会は審議する場だ。審議しようとしている内容と、野党が問題にしている内容は大きく異なるので、審議は審議として進めるべきではないか」と述べました。

一方、記者団から、辞任した菅原前経済産業大臣と河井前法務大臣のその後の対応について聞かれ、「大変遺憾だ。かなり時間がたっているので、できるだけ早急に説明責任を果たすべきだ」と述べました。

総理大臣主催の「桜を見る会」をめぐっては、安倍総理大臣夫人の昭恵氏も出席していたほか、ことしの招待者のうち、安倍総理大臣からの推薦者の中に昭恵氏の推薦も含まれていたことがわかっています。

これに関連して、立憲民主党の熊谷裕人参議院議員質問主意書で、昭恵氏がどのような立場で「桜を見る会」に出席したのかただしました。

これに対し、政府は29日の閣議で「総理大臣夫人」は公人ではなく私人であるというこれまでの認識に変わりはないとしたうえで、昭恵氏の出席は安倍総理大臣の公務の遂行を補助する一環として行われてきたとする答弁書を決定しました。

「戦後政治の総決算」を掲げ、国鉄の民営化や日米安全保障体制の強化などに取り組んだ、中曽根康弘・元総理大臣が29日、東京都内の病院で亡くなりました。101歳でした。

中曽根・元総理大臣は、大正7年に、群馬県高崎市で生まれ、昭和16年に旧東京帝国大学を卒業し、当時の内務省に入ったあと、太平洋戦争中は海軍の士官を務めました。

そして、昭和22年の衆議院選挙で、旧群馬3区に、当時の民主党から立候補して初当選し、その後、自民党の結成に参加して、20回連続で当選しました。

この間、昭和34年に第2次岸改造内閣科学技術庁長官として初入閣し、防衛庁長官運輸大臣通産大臣のほか、自民党の幹事長や総務会長などを務めました。

また、改進党に所属していた当時、被爆国の日本でも、原子力発電に向けた研究開発が不可欠だとして、原子力関係の予算案の提出を主導したことでも知られました。

中曽根氏は、当時の佐藤栄作総理大臣の長期政権のもと、三木武夫田中角栄大平正芳福田赳夫と並んで、いわゆる「三角大福中」の一角をなし、「ポスト佐藤」の候補として、党内の実力者のひとりに数えられるようになりました。

昭和57年11月、自民党の総裁予備選挙で、河本敏夫氏、安倍晋太郎氏、中川一郎氏を抑えて、第71代の内閣総理大臣に就任し、「戦後政治の総決算」を掲げて、懸案の解決を目指しました。昭和60年8月15日には、戦後の総理大臣として初めて、靖国神社公式参拝しましたが、中国などから強い批判を受け、それ以降は参拝を見送りました。

中曽根氏は、行政改革などに尽力し、第2次臨時行政調査会、いわゆる「土光臨調」の土光敏夫氏と二人三脚で、「増税なき財政再建」に取り組み、当時の「国鉄」、「電電公社」、「専売公社」の民営化に取り組みました。

一方、外交面では、総理大臣就任からまもない昭和58年1月に、当時、関係がぎくしゃくしていた韓国を訪れて関係改善に道筋をつけて、そのままアメリカを訪問し、レーガン大統領との間で強固な信頼関係を築きました。互いを「ロン」「ヤス」と呼び合うレーガン大統領との関係は、中曽根外交の基盤となり、昭和58年11月にレーガン大統領が日本を訪れた際には、東京 日の出町のみずからの別荘「日の出山荘」でもてなし、中曽根氏がほら貝を吹く姿も話題になりました。

昭和60年3月には、旧ソビエトチェルネンコ書記長の葬儀を利用して、ゴルバチョフ新書記長との首脳会談も実現させました。

一方、中曽根氏は、私的な諮問機関を設けることで、大統領型のトップダウン政治を目指したほか、日米貿易摩擦をめぐる記者会見では、みずからグラフを指し示したり、水泳や座禅をする様子を公開したりするなど、パフォーマンスのうまさでも知られました。

昭和61年には、「死んだふり解散」、「ねたふり解散」とも呼ばれる、衆参同日選挙を行い勝利を収め、党総裁としての任期が1年延長されました。しかし、昭和62年4月の統一地方選挙で敗北し、みずからが目指していた売上税の導入を断念し、その年の10月には、当時、「ニューリーダー」と呼ばれた、安倍晋太郎竹下登宮沢喜一の3氏の中から、竹下氏を後継総裁に指名し、11月に退陣しました。

中曽根氏の総理大臣としての在任期間は1806日と、当時としては異例の5年におよび安倍、佐藤、吉田、小泉の4氏に次ぐ、戦後5番目の長期政権となりました。

総理大臣退任後、リクルート問題で、平成元年5月に衆議院予算委員会で証人喚問を受け、党を離れましたが、2年後に復党しました。

そして、平成8年の衆議院選挙では、小選挙区制度の導入に伴い、当時の党執行部から、比例代表の終身1位で処遇することを確約され、小選挙区での立候補を見送りました。翌年には、大勲位菊花大綬章を受章したほか、国会議員在職50年の表彰も受けました。

しかし、平成15年の衆議院選挙の際、当時の小泉総理大臣が、比例代表の73歳定年制の例外を認めず、中曽根氏は立候補を断念して、56年に及ぶ国会議員としての活動に幕を閉じました。

中曽根氏は、政界引退後も、安全保障や国際交流のシンクタンクの会長を務め、内政や外交をめぐって積極的な発言を続け、みずからの心境を、「くれてなお命の限り蝉しぐれ」と詠んでいます。

とりわけ、憲法改正には強い意欲を示し、新しい憲法の制定を目指す、超党派の国会議員らでつくる団体の会長を務めてきたほか、おととし5月に出版した著書では、戦力の不保持などを定めた9条2項を改正し、自衛隊の存在を憲法に位置づけるべきだなどと提案しました。

中曽根氏の長男で自民党中曽根弘文外務大臣は、自民党の関係者などに対して訃報を出し「父は、本日、永眠致しました。葬儀につきましては近親者のみによる家族葬にて執り行い、後日お別れの会を開催する予定でございます。永年に亘りますご厚誼に対しまして、故人に代わり衷心からの感謝を申し上げます」としています。

安倍総理大臣は、弔意を表す談話を発表しました。

この中で「中曽根氏は、東西の軍事対立や日米貿易摩擦の高まりなど、わが国が厳しい内外情勢におかれた時期に、5年間にわたり総理大臣の重責を担われ、戦後史の大きな転換点に当たってかじ取り役を果たされた」としています。

そのうえで「戦後日本政治の総決算を掲げ、アメリカのレーガン元大統領との強い信頼関係のもとで強固な日米同盟を確立し、近接するアジア諸国との関係を強化するとともに、国際社会の一員として、世界の平和、経済秩序の維持に重要な役割を果たし、わが国の国際的地位を大きく向上させた」としています。

さらに「中曽根氏は、行政改革の断行を最重要課題と位置づけ、強いリーダーシップを発揮して21世紀に向けた諸制度の改革に取り組み、国鉄の民営化をはじめとして、大きな実績を上げられた」としています。

そして「私は、この訃報に接し、深い悲しみを禁じえません。国民の皆様とともに、心から哀悼の意を表します」としています。

第2次中曽根内閣で文部大臣を務めた東京オリンピックパラリンピック組織委員会会長の森元総理大臣は、NHKの取材に対し「とにかく偉大な政治家で、自民党や国政全般の大変大きなおもしになり、象徴的な方だった。その方が亡くなられて大きな時代の流れだという印象だ。私個人としては中曽根内閣で教育改革が大きな柱に取り上げられる中、私に文部大臣をやってほしい、がんばってくれと言われ、大きな命題を任されて光栄でもあったし、責任の重さを感じていた」と話しました。

自民党政務調査会長などを務めた亀井静香氏はNHKの取材に対し「まさに『巨星おつ』だ。中曽根先生はアメリカのレーガン元大統領との間で『ロン・ヤス』と呼び合う深い関係を作り、アメリカとの密接な友好関係を築いた。また、日本の保守の潮流の代表者として日本全体を引っ張ってきた。大変なご指導を受けてきただけに残念だ」と述べました。

中曽根氏の秘書を務めたあと、衆議院議員となり、農林水産大臣や文部大臣などを務めた島村宜伸さんは、NHKの取材に対し、「なんとも言えない。私にとって、中曽根元総理は親と同じですから、大変驚いているが、いまは落ち着いている。いろいろな思いは、頭の中によみがえっている。お世話になった皆様には、私からも大変お世話になりましたと言いたい」と話していました。

自民党山崎元副総裁はNHKの取材に対し「年齢から、この日がいつか来ると覚悟はしていたが、惜別の情を誰よりも強く感じる。私は中曽根氏に見いだされて国会議員になった一人で、大恩人だ。思い出は数限りない」と述べました。

また、官房副長官として中曽根氏の首脳会談に同席した思い出に触れ「アメリカのレーガン大統領との会談では、冷戦構造の解消をアメリカに強く迫ったうえで6者協議を提案し、今の対北朝鮮外交が始まった。迫力を身にしみて感じた」と振り返りました。

かつて中曽根派に所属していた自民党の甘利税制調査会長は、「『巨星おつ』という感じだ。本当に残念だ。ご冥福をお祈り申し上げる。偉大な政治家で、常に世界観とか大局観とか、物事をふかんして戦略的に見られる人だったと思う。どんなに頑張っても追いつけない存在だった」と述べました。

自民党の河村元官房長官は記者団に対し「寂しい思いだ。日本の厳しい時代に総理大臣として貢献され、われわれの手本のような方だったので非常に残念だ。残った者がしっかり頑張っていかなければならない。また、総理大臣になって最初に行った外国が韓国だったことを考えると、中曽根元総理大臣は日本と韓国の関係を大事にされていたと思う」と述べました。

自民党の額賀元財務大臣はNHKの取材に対し「自分が初当選したのは中曽根内閣の時だったが、『戦後政治の総決算』だと言ってさまざまな改革に取り組んでいたことが印象的だ。こんにちの日本の土台を作った方であり、信念を貫き、未来に向けた哲学を持った政治家だった」と述べました。

自民党細田元幹事長は記者団に対し「行政改革の問題や日本の発展、それにアメリカをはじめとする外国との外交に力を入れていた。生涯の課題として憲法改正も長く主張しておられた。筋の通った大政治家だったと思う。憲法改正も中曽根先生のお気持ちに沿って自民党は進んでいる。心からご冥福を申し上げる」と述べました。

自民党の古賀元幹事長は、NHKの取材に対し「日本の戦後政治をリードした大功労者であり、敬愛し尊敬していた。私が自民党の幹事長に就任した際、『総理を支えることも大事だが、 国があり国民があるということを忘れるな』と言われ、そのことばを肝に銘じて仕事をしてきた。これからも頑張ってもらいたいと思っていたので、寂しいし残念だ」と述べました。

中曽根元総理大臣の秘書をおよそ30年務めた田中茂元参議院議員はNHKの取材に対し「とにかく本を読み、勉強をした人だった。総理大臣になるために20冊ものノートを記して用意していて、あれだけ勉強する総理大臣はほかにいない。『いつかは』と思っていたが、思い出がありすぎて、今は何とも言えない」と話していました。

中曽根氏の元秘書で参議院憲法審査会長などを務めた柳本卓治氏は、NHKの取材に対し、「父同然の恩師だった。憲法改正中曽根元総理大臣のライフワークだったし、『政治家は、国家観、歴史観の上に立って日本の在り方を考えなければいけない』ということを教わった。ひと月ほど前にお目にかかったときは、逆に励まされるほどお元気だったが、それが最後の別れになってしまった。今はことばが出てこない」と話していました。

国民民主党の玉木代表は記者団に対し、「尊敬する偉大な政治家で、まさに『巨星おつ』だ。『日本』という背骨がまっすぐ入った気骨ある方で、国鉄民営化をはじめ戦後政治に大きな足跡をしるした。1983年に韓国を訪問した際には韓国語であいさつし、日韓関係の改善につなげるなど、単なる『タカ派』ではなく、国益を考え、アジアの平和と繁栄に貢献をされた。心からご冥福をお祈りしたい」と述べました。

国民民主党の平野幹事長はNHKの取材に対し「101歳という長寿で、これまで日本の政治を主導してこられた方であり、極めて残念だ。われわれは、思いをしっかりと受け止めて頑張りたい」と述べました。

国民民主党の原口国会対策委員長はNHKの取材に対し「心から哀悼の誠をささげたい。何度もご指導をいただいたが、安全保障に関する勉強会では『部分だけを見ず、広く世界の流れを見ながら、日々、研さんするように』というお話をされた。限られた時間だったが、非常に濃厚で、ありがたい時間だった」と述べました。

中曽根内閣で自治大臣などを務めた国民民主党小沢一郎衆議院議員は「選挙を担当する自民党総務局長としてお仕えし、衆議院京都2区の補欠選挙で、谷垣前総裁と、野中元幹事長の両方を当選させることができた際『名医の手術を見ているようだ』とえらく褒めていただいたことをよく覚えている。文字どおり、戦後政治を総決算されたすばらしい指導者だった。心からご冥福をお祈り申し上げたい」というコメントを発表しました。

日本維新の会の馬場幹事長は記者団に対し「当時、国鉄の民営化は絶対に無理だと言われていたが、民間の知恵を借りて民営化にこぎ着けたのは日本の歴史に輝かしく残る功績だと思う。国会議員を引退後も憲法改正に力を入れておられ、叱咤(しった)激励をいただいた。行財政改革規制緩和に取り組むことが中曽根元総理大臣の心を引き継ぎ、弔意をあらわすことになる」と述べました。

日本維新の会鈴木宗男参議院議員は「衆議院議員に無所属で初当選し、のちに自民党に入ったのが中曽根総理大臣のときだったので、いろいろな思い出がある。昭和、平成を通じて、最後のステーツマンと言える大物政治家で、非常に残念だ」と述べました。

海外のメディアも速報で伝えています。

ロイター通信は、アメリカのレーガン元大統領と親しくつきあい、抜本的な改革を実現するために官僚たちと戦ったことを伝えました。

アメリカのAP通信も「第2次世界大戦後の政界の巨人、中曽根元総理大臣が死去した」と伝えています。

アメリカの有力紙、ウォール・ストリート・ジャーナルも速報で伝え、「中曽根政権のもと、日本は戦後の軍備を強化し、世界経済で
アメリカのライバルと評価されるようになった」と指摘しています。

中国国営の中央テレビや新華社通信など、中国の各メディアも中曽根元総理大臣の死去を速報で伝えました。

このうち、中国中央テレビは、NHKの報道を引用して、中曽根元総理大臣が1982年から5年間、日本の総理大臣を務め、国鉄の民営化や日本の安全保障の強化に努めたと伝えました。

また、共産党系のメディア環球時報は、中曽根元総理大臣の経歴のうち、1985年の8月15日に戦後の総理大臣として初めて靖国神社公式参拝したことを強調して紹介しています。

さらに、上海の共産党系メディア「澎湃」は、「最も国際化した政治指導者だった」などと伝えています。

韓国の通信社、連合ニュースは、中曽根元総理大臣が死去したことを速報で伝えました。

連合ニュースは、中曽根元総理大臣の経歴を紹介するとともに「日本の現代政治史の生き証人が亡くなった」と伝えています。

また「1960年代前半の日韓国交正常化の過程で重要な役割を果たし、1983年には戦後の日本の総理大臣として初めて韓国を訪問して、両国の友好に寄与した」と功績をたたえています。

その一方で、1985年に戦後の総理大臣として初めて、靖国神社公式参拝したことについては「日本の政治家が靖国神社を参拝できる道を開き、韓国や中国などの周辺国から反発を買った」と批判的に伝えています。

生前、中曽根氏と新聞や民放のテレビ番組で対談やインタビューを重ねた東京大学御厨貴名誉教授は中曽根氏の功績について「いちばんはやはり、戦後、労働組合と対じして結果的につぶしたこと。国鉄を解体して、JRを作ったことが彼の功績でしょう」と話しています。

また、アメリカのレーガン元大統領とお互いを「ロン」「ヤス」と呼び合う仲だったことに触れ「レーガンとの日本での会談で『彼は土のにおいがする』と言って、自分の別荘に招いて、ホラ貝なんかも吹いてもてなした。戦後日本の安保が重要視されていたなかで、強い関係性を作った」と評価していました。

そのほか、「それまでの政治家と違って視覚に訴えることを重視した政治家だった。サミットでは自分が真ん中になるようにしたり、ぬれた髪のまま人前に出てきて、『水泳やっていたんだ』と言って、自分の体自慢のようなことをした。見せることに関心のある政治家だった」と中曽根氏の一面を話しました。そして「中曽根さんが今の政治を見ると、大きい政治、この国を変えていくような政治がなくなったと、残念に思っていただろう」と話していました。

中曽根氏とともに国鉄の民営化にあたったJR東海葛西敬之名誉会長は「国鉄の分割民営化は、中曽根元総理のリーダーシップがあったからこそ実現できた。その結果が鉄道の今日の発展につながっており、大変大きな功績を残された。心よりご冥福をお祈り申し上げます」とコメントしました。

中曽根氏が12代総長を務めていた拓殖大学は「大学改革に大きく寄与いただきました。産業界や社会と結び付いた教育を実現したいという思いから、財界人を講師とする講座を開講。退任後も創立100周年の記念式典にご臨席いただくなど、暖かく心を寄せていただきました。心よりご冥福をお祈り申し上げます」とコメントしています。

中曽根元総理大臣が亡くなったことについて、日本商工会議所の三村会頭は記者団に対し「亡くなられたと聞いて本当に驚いている。私は中曽根さんを囲む経済に関する研究会に参加していて、その中で非常に印象に残っているのが『政治家は歴史という法廷の被告人である。評価は後世に任せて、自分の信じることを力強く実行することが政治家の役割だ』ということだった。私心なく国益のために頑張られた政治家だった」と述べました。

また、経済政策については「JRの民営化は、いいことだったと思う。NTTもそうだが、民営化以前とは格段に業績もサービスもよくなっている。民営化をめぐっては、いろいろな抵抗が世の中全般からあったが、見事に政治家として乗り越えられたことも立派な功績だ」と述べました。

さらに、三村会頭は「中曽根さんが総理大臣に就任して最初に訪問した国は韓国だった。そのとき、カラオケを韓国語で歌ったと聞いている。そうした姿勢が反日感情が厳しかった中でも、関係改善に結び付くという感覚をお持ちだったと思う。今の日韓の情勢を見て、中曽根さんなら、おそらく『対話をしろ』と言ったと思う」と述べました。






29日開かれた衆・参両院の本会議では、先に政府が提示した国会の同意が必要な12機関、32人の人事案の採決が行われました。

このうち、カジノの運営を申請した事業者の審査などにあたるため来年1月7日に発足する「カジノ管理委員会」の初代の委員長に元福岡高等検察庁検事長の北村道夫氏を起用するなどとした人事案は、自民・公明両党と日本維新の会などの賛成多数で同意されました。

北村氏は67歳。昭和52年に検事になり、仙台高等検察庁と福岡高等検察庁検事長などを歴任したあと、平成27年から去年まで防衛省の防衛監察監を務め、南スーダンに派遣されたPKO部隊の日報をめぐる問題の監察にあたりました。

また、NHKの経営委員会の3人の委員の人事案も賛成多数で同意されました。