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弓道では、「もろ矢」<諸矢>、即ち、甲矢(はや)乙矢(おとや)の二本の矢<一手矢(ひとてや)ともいう>を持って的に向かうのは、通常の方式です。初心の人が、二本の矢を持って的に向かったということは、当然であったわけです。それにもかかわらず、師匠は、「初心の人」にあえて先のような指導をしているのです。道に達した師匠の、「初心の人」に対する心理的洞察の的確さと指導者としての教育的配慮とがみごとに行われている話ですね。

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「的を狙ってはいけない。心を深く凝らせば、的と自分が一体となる。自分自身を射なさい」

 ヘリゲル氏は驚愕したに違いない。以来、疑うことも問うことも思い煩うこともきっぱりと諦め、精進した。こうして、苦節5年間の後、「無の射」を体得した。その完成の域が「不射の射」であることも理解したという。

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「一射絶命」

的と私が一体になるならば、矢は有と非有の不動の中心にある。
射は術ではない。的中は我が心を射抜き、仏陀に到る。

ドイツ人哲学者オイゲン・ヘリゲルは日本文化の研究のため弓術を研究することにし、阿波に弟子入りした。しかし、狙わずに中てる事などという阿波の教えは合理的な西洋人哲学者に納得できるものではなく、ヘリゲルは本当にそんなことができるのかと師に疑問をぶつけた。阿波は、納得できないならば夜9時に私の自宅に来なさいとヘリゲルを招いた。

真っ暗な自宅道場で一本の蚊取線香に火を灯し三寸的の前に立てる。闇の中に線香の灯がゆらめくのみで、的は見えない。

そのような状態で阿波は矢を二本放つ。一本目は的の真ん中に命中。二本目は一本目の矢筈に中たり、その矢を引き裂いていた。暗闇でも炸裂音で的に当たったことがわかったとオイゲンは『弓と禅』において語っている。二本目の状態は垜(あづち)側の明かりをつけて判明した。

この時、阿波は、「先に当たった甲矢は大した事がない。数十年馴染んでいる垜(あづち)だから的がどこにあるか知っていたと思うでしょう、しかし、甲矢に当たった乙矢・・・これをどう考えられますか」とオイゲンに語った(オイゲン・ヘリゲル著『弓と禅』より)。

ヘリゲルはこの出来事に感銘を受け(矢を別々に抜くに忍びず的と一緒に持ち帰り)、弓の修行に邁進し、後に五段を習得している。

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 紀昌は早速師の許に赴いてこれを報ずる。飛衛は高蹈して胸を打ち、初めて「出かしたぞ」と褒めた。そうして、直ちに射術の奥儀秘伝を剰すところなく紀昌に授け始めた。
 目の基礎訓練に五年もかけた甲斐があって紀昌の腕前の上達は、驚くほど速い。
 奥儀伝授が始まってから十日の後、試みに紀昌が百歩を隔てて柳葉を射るに、既に百発百中である。二十日の後、いっぱいに水を湛えた盃を右肱の上に載せて剛弓を引くに、狙いに狂いの無いのはもとより、杯中の水も微動だにしない。一月の後、百本の矢をもって速射を試みたところ、第一矢が的に中れば、続いて飛来った第二矢は誤たず第一矢の括に中って突き刺さり、更に間髪を入れず第三矢の鏃が第二矢の括にガッシと喰い込む。矢矢相属し、発発相及んで、後矢の鏃は必ず前矢の括に喰入るが故に、絶えて地に墜ちることがない。瞬く中に、百本の矢は一本のごとくに相連なり、的から一直線に続いたその最後の括はなお弦を銜むがごとくに見える。傍で見ていた師の飛衛も思わず「善し!」と言った。

儞がもしこれ以上この道の蘊奥を極めたいと望むならば、ゆいて西の方大行の嶮に攀じ、霍山の頂を極めよ。そこには甘蠅老師とて古今を曠しゅうする斯道の大家がおられるはず。老師の技に比べれば、我々の射のごときはほとんど児戯に類する。儞の師と頼むべきは、今は甘蠅師の外にあるまいと。

 一通り出来るようじゃな、と老人が穏やかな微笑を含んで言う。だが、それは所詮射之射しというもの、好漢いまだ不射之射を知らぬと見える。

紀昌はすぐに気が付いて言った。しかし、弓はどうなさる? 弓は? 老人は素手だったのである。弓? と老人は笑う。弓矢の要る中はまだ射之射じゃ。不射之射には、烏漆の弓も粛慎の矢もいらぬ。

 紀昌は慄然とした。今にして始めて芸道の深淵を覗き得た心地であった。
 九年の間、紀昌はこの老名人の許に留まった。その間いかなる修業を積んだものやらそれは誰にも判らぬ。
 九年たって山を降りて来た時、人々は紀昌の顔付の変ったのに驚いた。以前の負けず嫌いな精悍な面魂はどこかに影をひそめ、なんの表情も無い、木偶のごとく愚者のごとき容貌に変っている。久しぶりに旧師の飛衛を訪ねた時、しかし、飛衛はこの顔付を一見すると感嘆して叫んだ。これでこそ初めて天下の名人だ。我儕のごとき、足下にも及ぶものでないと。
 邯鄲の都は、天下一の名人となって戻って来た紀昌を迎えて、やがて眼前に示されるに違いないその妙技への期待に湧返った。
 ところが紀昌は一向にその要望に応えようとしない。いや、弓さえ絶えて手に取ろうとしない。山に入る時に携さえて行った楊幹麻筋の弓もどこかへ棄てて来た様子である。そのわけを訊ねた一人に答えて、紀昌は懶げに言った。至為は為す無く、至言は言を去り、至射は射ることなしと。

 雲と立罩める名声のただ中に、名人紀昌は次第に老いて行く。既に早く射を離れた彼の心は、ますます枯淡虚静の域にはいって行ったようである。木偶のごとき顔は更に表情を失い、語ることも稀となり、ついには呼吸の有無さえ疑われるに至った。「既に、我と彼との別、是と非との分を知らぬ。眼は耳のごとく、耳は鼻のごとく、鼻は口のごとく思われる。」というのが、老名人晩年の述懐である。

 その後当分の間、邯鄲の都では、画家は絵筆を隠し、楽人は瑟の絃を断ち、工匠は規矩を手にするのを恥じたということである。

名人伝

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