渡辺知明著『読書の教科書―精読のすすめ』は読書入門書である。中学校の国語参考書として使うことまで想定して書いた。学校の読書指導が気になる。単なる本の紹介で終わっていないか、読書の煽りに留まっていないか。書物を精神の糧として生きる力のエネルギーを生みだす読書法を示しているだろうか。
— 渡辺知明 (@WATANABE_tomo) January 16, 2020
我々の知能の働きに関しては、こういう東洋的思惟に限らず、西洋でも同じような考え方がありまして、たとえばイギリス哲学によりますと、単に本を読んだり、暗記したりするような知性の働きのことをcogitationといっております。それがもっと性命的になるとmeditationとなり、それをさらに深めてcontemplationと申しております。
また、ドイツ流をとりますと、私どもが学校でやってきたような勉強、こういう知識の学問をすることを、その性質を表明して、arbeitswissenアルパイツヴィッセン〈労働知〉といっております。これは善人が使えばよいほうに役立ち、悪人が使えば悪いほうに役立つ。使う者によってどうにもなる。そのままでは頭の機械的労働にすぎない。もっと人格に役立つ、人類の幸福・運命に役立つものは、そんな労働知ではなくて、もっと建設的という意味で、bildungswissenピルドゥングスヴィッセン〈形成知〉といっております。それがさらに徳に根差し、徳を表現して、世俗を脱け出たものになると、erloezungswissenエルレーズングスヴィッセン、即ち〈解脱知〉という字を用いておりまして、つまらない通俗・低級な境地を脱して聖哲であるという意味で、heilswissenハイルスヴィッセン〈聖知〉ともいっております。西洋哲学も東洋哲学もそういう点では一致しております。
だんだん学問するにしたがって、我々がねじり鉢巻で試験勉強をするような頭の使い方、そういう知性はあまり価値がない。本当はだんだん人生の体験を積んだ深い叡智にならねばならない。
そこで、 教育に携わる学校の先生にもいろいろあるわけで、単に本を読ませたり、暗記させたり、推理させたり、試験したりするような、単なる知識技術を教える先生はレーゼマイスターLesemeister〈読師〉という。本当の先生は人間をつくるレーベマイスターLebemeister〈導師〉でなければならない。世の中にはレーゼマイスターはいくらもおりますが、レーベマイスターが少ない。この師によって初めて人間が人格として、精神的・霊的存在として向上する。その向上が政治・経済・教育・百般の生活に応用されて真の文化というものになる。
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