www.tsuchiya-kaban.jp
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読書を食事に喩えるとその本質がよくわかる。読書は大食い競争ではない。人間の食欲というものは15分で満たされるのだそうだ。だから、大食い競争では15分以内に大量の食物を腹に入れることになる。そのためには速度が問題になる。速く食べるには、ろくに噛まずに次から次にどんどん飲み込んだらいい。
— 渡辺知明 (@WATANABE_tomo) 2019年1月31日
読書会というものはなかなかうまくいかないものだ。その多くは本を読むのではなく、本をタネにした雑談の会になりがちだ。朗読会も似たようなものである。作品を読むのではなく、文章の文字を声で再生しているのだ。朗読を理由にして舞台に立って自分を人に見せるのを楽しむ読み手が多すぎるのである。
— 渡辺知明 (@WATANABE_tomo) 2019年1月31日
読書道という言葉が考えられる。そもそも読むことは個人的なものだ。その究極は自己との向き合いということになるだろう。それが道である。ところが、読書は外界からの情報の吸収のように思われている。人間はスポンジではない。中心には自我がある。外界からのものと自己の内面との対決の場である。
— 渡辺知明 (@WATANABE_tomo) 2019年1月31日
読書論というのは読書について総論である。いわば読書の哲学のようなものだ。それを実践化するためには、さらに読書法と読書術とが必要になる。読書の方法を具体化したのが技術である。その基礎は読書の哲学である。一般の読書の本では読書論の骨格がアイマイで、ブックガイドばかりが目立っている。
— 渡辺知明 (@WATANABE_tomo) 2019年1月31日
日弁連のe-Learningで改正相続法の講義を受けたが、あれは質が高い。面白かった。なぜそう思ったのか、の分析をしなければ。
— anonymity (@babel0101) 2019年1月30日
改正法を条文の文言の意味内容のみならず、改正の経緯、趣旨、立案担当者の解釈、それへの反対論、そこから生まれる類推適用や実務運用の多元的展開などまでコンパクトに説明。特に立案担当者の見解を一言でぶち抜いていくところに含蓄を感じた。熱意、かけてきた時間、実務経験...それを予感させる。
— anonymity (@babel0101) 2019年1月30日
昨日、今日の経験を細かく分析して咀嚼してメソッドを完成に近づける。
— 蓮田キト (@shoeshineboyz) 2019年1月30日
もう、ちょっと今すぐ映画やりたい。
— 蓮田キト (@shoeshineboyz) 2019年1月30日
というか明日芝居したい、なんかの台本引っ張ってきてやろう。事務所のスタジオ占拠しよう。
リハってかトレーニングしよう。
トレーニングは毎日やるものよ。
20代後半の頃の興奮が蘇って来たよ、そしてやっと40代準備整ったんす( ˊ̱˂˃ˋ̱ )
— 蓮田キト (@shoeshineboyz) 2019年1月30日
木庭顕さん@朝日賞贈呈式。「私は、ギリシャ、ローマから人文主義を経て現代に至る大きな太い知的伝統というものがございまして、それに何とか連なろうとしてきた、あるいはつらなることさえできなかったと。従って、何の功績もないのですが、知的伝統の重要さについて、何とか若い世代に伝えたいと」
— YAMAGUCHI,Susumu 山口進 (@yamaguchis21) 2019年1月30日
木庭顕さん続き。(承前)「少なくとも私にとって、ある重要な意味があると考えております。というのも、我が国の柱となるような言論機関が、久しぶりに、この太い知的伝統に触れるということの意味は、それほど小さくないのではないかというふうに考えているわけであります」(続く)
— YAMAGUCHI,Susumu 山口進 (@yamaguchis21) 2019年1月30日
木庭顕さん。(承前)「と申しますのも、このような重要な言論機関はやはり、時代に流されてはいけない。これが決定的に重要なことであります。しかし、このことはそんなに簡単なことではございません。よりどころというものが必要であります。まあ一種、北極星のようなものですね」(続く)
— YAMAGUCHI,Susumu 山口進 (@yamaguchis21) 2019年1月30日
木庭顕さん。(承前)「現にこの朝日賞をとってみてもですね、1935年から1945年の間は、現代から見ると無残な姿をさらしているといわざるをえないわけであります。従ってこれは難しい、時代に流されないということは難しいことであるわけですけれども」(続く)
— YAMAGUCHI,Susumu 山口進 (@yamaguchis21) 2019年1月30日
木庭顕さん。「しかし、その時こそですね、やはり、なんといっても古典の力は非常に安定的であります。時の気まぐれな風の向きにさおさす、これがどんなにみじめな結果を招いたかということを私は存じておりますので」
— YAMAGUCHI,Susumu 山口進 (@yamaguchis21) 2019年1月30日
木庭顕さん。(承前)「次にこの太い知的伝統でありますけれども、人間の可能性について非常に深い信頼を持っております。これを教育のほうに置き換えますと、若い人、あるいは子どもたちの可能性について全幅の信頼を置くということになるわけであります」(続く)
— YAMAGUCHI,Susumu 山口進 (@yamaguchis21) 2019年1月30日
木庭顕さん。(承前)「私は最近、この方面において、まあもともとの考えではありましたけれども、そのことが、現代日本でも可能であるという強い確信を持つに至りました。それはひとえに(対話の)相手になってくれた若い方々、中高生たちのおかげでありますけれども」(続く)
— YAMAGUCHI,Susumu 山口進 (@yamaguchis21) 2019年1月30日
木庭顕さん。「それから、これはやや予想外であったのはですね、その姿、その中高生たちの姿に共感する読者たち、これがかなりの数いるということであります。このことは、現代の日本の社会において、私は非常に意外でした。ですが、意外な希望を与えてくれたと、いう風にかえって言える」(続く)
— YAMAGUCHI,Susumu 山口進 (@yamaguchis21) 2019年1月30日
木庭顕さん。(承前)「ですから、つまり、我々はまだ絶望する必要はないと、いうふうに最近は強く感じている次第であります」(続く)
— YAMAGUCHI,Susumu 山口進 (@yamaguchis21) 2019年1月30日
木庭顕さん。「何よりも重要なことは、その場合に、学生や、中高生や子どもたちや、あるいはたとえば言論機関の目から見ると視聴者とか読者ということになろうかと思いますが、大事なことは、この人たちを決して低く見ない、馬鹿にしないということであります。リスペクトをするということであります」
— YAMAGUCHI,Susumu 山口進 (@yamaguchis21) 2019年1月30日
木庭顕さん。(承前)「受け手をとことんリスペクトすると。そのためには、レベルを落とさないと。メッセージのレベルを落とさない。最高度のメッセージを伝えようとする」(続く)
— YAMAGUCHI,Susumu 山口進 (@yamaguchis21) 2019年1月30日
「その最高度のメッセージが、そう思ったものが伝わらなかった場合に、レベルの落とし方が足らないと思わないようにするということが大事であります。つまり逆で、その場合は必ずそのメッセージのレベルがやや低すぎるのであると、十分に高度でないために、非常に多くの、例えば中高生に伝わらないと」
— YAMAGUCHI,Susumu 山口進 (@yamaguchis21) 2019年1月30日
木庭顕さん。(承前)「最後に、この太い知的伝統の一つに、自分の目の前の現実を凝視する、一番いやな現実から目をそらさずにじっと見るということがございます。トゥーキュディデース以来の伝統と申し上げることができますが」(続く)
— YAMAGUCHI,Susumu 山口進 (@yamaguchis21) 2019年1月30日
木庭顕さん。(承前)「この点において私はヒストリアンでありますので、この点において言論機関と、私とはいわば利害関係をともにいたします。同じ精神に基づいてすべきであるということかと思います」「実は、文学もこのカテゴリーに、広い意味の文学もこのカテゴリーに入ります」(続く)
— YAMAGUCHI,Susumu 山口進 (@yamaguchis21) 2019年1月30日
木庭顕さん。(承前)「現実を、まあ、目をそらさずにじっと、いやでもじりじりと見るという精神ですね。ここから、ホメロス以来の文学は生まれてきたのであります。そして、文学の一つのジャンルとして映画というものがございます」(続く)
— YAMAGUCHI,Susumu 山口進 (@yamaguchis21) 2019年1月30日
木庭顕さん。(承前)「かつての優れた映画はすべて、この精神に基づいているということがございます。そして現代の日本において、現代の日本のそのような現実をじっとシャープに見つめた、そういう作品がもしあったとするならば、それを世界が称賛するのは当然であるわけです」(続く)
— YAMAGUCHI,Susumu 山口進 (@yamaguchis21) 2019年1月30日
d1021.hatenadiary.jp
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人間は進歩しようと思えば、統一がなければならない。教育とは何ぞやと言えば、つまるところは先輩・後輩と長者・少者の連続・連結の役目をなすものでなければならない。
要するに孝という字は、単に親を大事にして、親に尽くすという意味だけではなくて、親子、老少、先輩・後輩の連続・統一を表わす文字である。そういうことを知って孝経や論語を読むと、限り無い教訓がその中に含まれておることがよくわかる。
「天地の為に心を立つ。生民の為に命(命は一に道)を立つ。
往聖の為に絶学を継ぐ(往聖は一に去聖)。
万世のために太平を開く」
食堂(山上会館)で偶然ご一緒するたび、拙い議論にお付き合い頂いた頃が思い出される。順繰りに次の世代へお返ししていくべきだが、今の自分には全く出来ていない。
— Shimanami Ryo (@shimanamiryo) 2019年1月30日
私がね、現役宝塚ジェンヌだった時は今よりもっともっと不器用で、あと忙しい日々に追われすぎて、伝えられなかった想いが沢山あって。
そういうものを、だいぶ大人になった今ご本人に伝えられる事の幸せ。
現役の時にはわからなかった、OG公演という貴重な経験。感謝の一言に尽きます。
#勉強法
かき揚げそば大盛 pic.twitter.com/OpW13NqndS
— 弁護士 戸舘圭之 (@todateyoshiyuki) 2019年1月30日