前後のコンテクストから読み解けば、発言者側の意図なんて容易にわかるだろう。
— たけるbot (@itotakeru) March 31, 2019
それを誤読しておいて「発信者側のせいだ」といえる根拠が全く理解できない。
発信者側の言葉足らずと、受け手側の読解力のなさは両立する。どちらか一方の責任という発想が意味不明。
仮に、証拠により認定された事実において、「女性はテキーラなどを数回一気飲みさせられ、嘔吐して眠り込んでおり、抵抗できない状態だった」と認められるならば、たとえ故意を欠き無罪であったとしても、当該客観的行為を処罰対象にするかは議論されてもいいのではないか。
— たけるbot (@itotakeru) March 31, 2019
このように一応は解釈し得る問題提起につき「神の目」だのなんだのと、よってたかって揶揄するべきなのだろうか。
— たけるbot (@itotakeru) March 31, 2019
たしかに「神の目からみた事実」を確定することはできず、その限度で不適切だとしても、問題提起自体は重要なものであった。
それを「原則発信者側の問題」とまでいうべきなのか。
d1021.hatenadiary.jp
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那須先生のご専門の現象学的社会学は、人間の日常生活世界の成り立ちの研究である。私も講義で「日常生活の社会学」というのをやっているが、両者は似て非なるものである。どちらも「当たり前」を疑うという点は共通なのだが、 「当たり前」を疑う仕方が違うのだ。一言で言えば、私が「暗黙の規範」とか「社会化」とか「役割理論」といった社会学のカテゴリーやセオリーを使って考察するのに対して、那須先生はそうした社会学的思考の「当たり前」も疑ってかかるのである。
弁護士 戸舘圭之の質問箱です
— 弁護士 戸舘圭之 (@todateyoshiyuki) March 31, 2019
最近回答した質問 → 「はじめまして。読書家であられる戸舘先生に質問します。法...」https://t.co/Caz7GbDoMt
読書家でもないし法哲学にぜんぜん詳しくはないのですが
読んだことある本でよかったなとおぼろげな記憶があるのは
#ポストモダン#体制派
『法哲学概論』
#勉強法