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安定的な皇位継承の確保や皇族数の減少などの課題をめぐり、政府は、国会から速やかな検討を求められていたことを踏まえ、天皇陛下の即位に伴うことし秋の一連の式典を終えたあと本格的な検討を始めるとしてきました。

こうした中、天皇陛下は4日、皇居の宮中三殿賢所に参拝し、即位に関する儀式を終えられましたが、菅官房長官は、「引き続き天皇陛下のご即位に伴う行事などを控えており、つつがなく行われるよう全力を尽くす」と述べました。

政府内では、秋篠宮さまが皇位継承順位1位を意味する「皇嗣」になられたことを内外に知らしめる「立皇嗣の礼」を来年4月に控え、いまは皇位継承順位に関わる議論を活発化させるべきではないという意見が大勢となっています。

このため、政府は、まずは、すべての式典を滞りなく行う必要があるとして、安定的な皇位継承の確保などの検討を来年4月以降に先送りする方針を固めました。

 僕は、「女性天皇女系天皇を容認すべきか。男系男子を守るために旧宮家を復活させるべきか」といった問題について議論する気も、オピニオンリーダーになる気もないので、今回は歴史的な事実だけを述べたいと思います。


 まず前提として、天皇家は「男系男子」の血筋を意識して守ってきたのではなく、結果としてこうなったにすぎないと考えます。長い歴史の流れで言えば、天皇家という家を繁栄させることが大切で、高貴な血をつなぐという考えは二の次でした。

 そう考える理由のひとつは、古代貴族社会の婚姻が招婿婚だったことです。女性が嫁に来るのではなく、女性の家へ男性が婿として通うのです。子どもが生まれれば、女性の家で育てられます。摂関政治藤原氏が娘を皇室に嫁がせ、生まれた子が天皇になると外戚として権力を振るった背景には、この婚姻の形があります。つまり、女系でつながっていたのです。

 丸谷才一先生が指摘したように、日本文化の中心は恋です。文化の中心に文学があり、文学の中心に歌があり、歌のメインテーマは恋でした。貴族はみんな、恋の歌の研鑽に励みました。花鳥風月や男と男の世界を詠うことが多い中国の漢詩とは、全く違う世界です。

 そして日本文学の粋といえば、源氏物語』。その序盤のストーリーは、光源氏と、父の後妻である藤壺との密通です。生まれた男子は、やがて天皇になります。ここで大事なのは、光源氏天皇の第二皇子として生まれましたが、すでに臣籍降下していること。皇族ではない一般人なのに、天皇の父になったわけです。

 光源氏はまた、源典侍(げんのないしのすけ)という女性と恋愛関係になります。光源氏はまだ20歳前で、源典侍は60歳近いという年の差ですが、いま言いたいのはそこではありません。典侍というのは、天皇の最も身近に仕える、位の高い女官です。当然しかるべき家柄の女性であり、天皇と男女の関係になって、産んだ子どもが天皇になる場合もあります。

 しかも源典侍には、修理大夫(すりのかみ)という旦那のような存在の男性もいました。つまり彼女は、天皇のお側近くにいながら、旦那がいて、たまに通って来る光源氏とも関係をもつのです。

 もちろん物語ではあるのですが、一般人である光源氏天皇の父親になったり、次の天皇を産むかもしれない女官がほかに複数の男性と関係をもつ話を読んでも、当時の貴族たちは「おかしいだろ。こんなことありえない」とは言いませんでした。

 中国の王朝では、天子の家系にほかの血が混ざらないように、猫の子一匹入る隙のない後宮を作りました。後宮に出入りする男性は、去勢した宦官に限られます。

 日本では江戸時代にようやく、男子禁制の大奥が作られます。その前の時代の朝廷は、男性も女性も、天皇の奥向きに平気で入ることができました。ガチガチに固めていた中国の後宮に較べると、実にゆるい制度です。

 こうしたことから、歴代の天皇の中には、実は天皇の実子でない人が紛れ込んでいる可能性もある、と考えられます。実際、朝廷の周辺に「御落胤だ」と噂される人がたくさんいました。『平家物語』にも、平清盛白河上皇の御落胤だという話が出てきます。

 家だけでなく血も大切だと考えられるようになったのは、江戸時代に幕府が朱子学を重んじてからです。中国から伝わってきた儒教は、ご先祖様を大切にするからです。

 しかし徳川将軍家や大名家を見ても、子から孫へと血がつながり続けた家は、さほど多くありません。跡継ぎ不在でお家断絶になれば、今で言う大企業が倒産して従業員と家族が路頭に迷うのと同じ状態になってしまいます。そこで徳川家は御三家や御三卿を作り、前田や黒田や島津のように大きな藩なら支藩に一門を配して、本家の血筋が途絶えたときに養子をもらうケースがありました。

 歴史的に見て、天皇には男性が望ましいと考えられてきたのは確かです。理由は、軍事の指揮官になるためです。今でこそ天皇は雅やかな存在ですが、現在の皇室が国を治めるに至ったのは、戦いに勝ったからです。古代には、政治よりも軍事指揮官としての役割が大事だったので、成人男性であることが望ましかったのです。

 女性天皇は、継承候補の男性皇族が成人になるまで中継ぎとして時間を稼ぐというのが、本来のあり方でした。その意味で言うと、史上8人いる女性天皇の中で、聖武天皇の娘である孝謙天皇重祚して称徳天皇だけが、中継ぎではありません。

 この孝謙天皇は僧の道鏡を寵愛し、太政大臣禅師、次いで法王にまで引き上げて問題になります。宇佐八幡からは「道鏡天皇にすれば、天下は泰平になる」という神託まで出て、道教天皇になろうとした。結局、天皇に仕えていた女官、和気広虫の弟、和気清麻呂が勅使として宇佐八幡へ派遣され、「私の前に現れた神は、『わが国は開闢このかた、君臣のこと定まれり。臣をもて君とする、いまだこれあらず』と、神託を否定した」と報告して、道鏡の即位を防ぎました。これが貴族の総意だったでしょう。

 僕の見方ですけれども、この「道鏡事件」は宮中のトラウマになったのではないでしょうか。女性天皇を立てると、同じようなことが起きる。だからこのあと江戸時代まで、女性天皇は現れません。

 天皇制が成熟して戦争の指揮を執らなくなると、成人男性である必要性が薄れます。摂関政治になれば、むしろ子どもの天皇のほうが都合がいいので、中継ぎに女性天皇を置く必要もありません。女性天皇8人のうち、推古天皇持統天皇など6人が奈良時代までに集中しているのは、そういう理由もあると思います。

 明治になると、天皇は軍の大元帥を兼ねましたから、男でなければ駄目だと決められました。国家神道というものができたのも、明治です。それ以前は即位に際して仏教の儀式もあったのに、明治になってやめたのです。天皇天照大神の子孫だというほうが迫力があるし、大陸から伝来した仏さまに守られてもありがたみがないからでしょう。天皇が神々の子孫であるという万世一系の物語は、明治になってから強調されるようになったのです。

 このことからも、「男系を守ってきた」という説がフィクションだとわかります。染色体とかDNAというのは、言うまでもなく現代になって出てきた話です。

 宮中祭祀のために男性天皇が望ましかったという説も誤りです。かつてたくさんいた子どもの天皇では、祭祀は務まりません。むしろ、シャーマンは女性のほうがいい。卑弥呼や伊勢の斎宮や沖縄の聞得大君(きこえおおぎみ)など、神の言葉を伝えるのは主に女性の役目です。

 女性天皇が少なかった理由には、「高貴な女性の神聖性」もあるでしょう。「皇室の女性が一般の男性と交わるのは、神聖性が侵害されるからけしからん」という心理です。江戸時代には、13歳以上まで成長した皇女が50人いましたが、結婚したのは14人だけ。その大半が、皇族である従兄弟との結婚でした。ほかの皇女の多くは、尼になっています。

 秋篠宮眞子さまと小室圭さんのご婚約問題も、当初は「高貴な眞子さまの心を射止めた男はけしからん」という心理があったのだろうと思います。それで素性を調べてみたら、いろいろと問題が出てきた。かりに愛子さま天皇になる場合も、「配偶者は持たないでください」とか「子どもを作らないでください」というのは無理です。となると、同じような「けしからん」問題が出てくることでしょう。

 議論されている旧宮家の復活に関しては、平安時代宇多天皇の例があります。光孝天皇の第7皇子だった宇多天皇は、臣籍降下して源定省(みなもとのさだみ)となりましたが、皇太子に指名されたため皇族に復帰し、即位しています。過去を調べれば、さまざまな先例があるものです。

「歴史」や「伝統」を重んじると主張する人たちの話も、明治維新から現代のことである例も多い。明治以来150年といいますが、日本には、はるかに長い歴史があるのです。

 その長い歴史を虚心坦懐に振り返っていえば、僕はむしろ、歴史にこだわる必要はないと考えます。過去にがんじがらめにならず、これからの天皇家を作ればいいのではないでしょうか。

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