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#乙巳の変
#飛鳥板蓋宮#八咫烏の幟
#蘇我入鹿#八咫烏の紋
#大化の改新

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しかし、不思議なのは、この当の民衆の取った態度である。
蘇我氏に対しての不満が全く見られ無いのである。それどころか、大化の改新による、入鹿暗殺後しばらくして実権を握った中大兄皇子(のちの天智天皇)らの行動に対し、人々は口々に罵り、サボタージュや宮への焼き討ちなど、あからさまに反感を示しているのである。
一般に伝えられている、『日本書紀』による歴史と異なってくる。蘇我氏の悪政に苦しめられていた民衆を救うため、正義の元、立ち上がったのが、中大兄皇子天智天皇)と中臣鎌足藤原鎌足)だったのではなかったのか。
何故、『記紀』が「蘇我氏の横暴」と非難しているにも関わらず、民衆に不満が見られないのか。そして逆にその「蘇我氏を成敗した」中大兄皇子らに対し、民衆は反感を示したのか。
どうも、『日本書紀』が主張する「正史」と当時の民衆の反応が「逆」なのである。

これまで、信じられてきた中大兄皇子天智天皇)や中臣(藤原)鎌足=「正義」、蘇我入鹿=「悪」という『日本書紀』本文の記載による通説を見直す必要がある。

ここで注目しなければならないのは、蘇我氏の祟りを恐れたということは、誰もが蘇我氏に対し、後ろめたい意識があったからということである。

つまり『日本書紀』の証言とは裏腹に、歴史の正義は蘇我氏にあったと推定される。
このことは日本列島に新たに生じた、百済王族を中心とする独裁志向の勢力と、古来からの合議制維持を掲げる政党大和朝廷、つまり蘇我氏を中心とした葛城系(出雲系豪族)の勢力の対立の歴史を証明しているのである。
漢人(カラヒト)にやられた」という正統・古人大皇子の叫びががそれを裏付ける。
加えて、645年のクーデター・大化の改新の折、天皇記』と『国記』が焼失しているのである。これらは、大化の改心の折、蘇我氏によって火が架けられたと通説は説く。しかし、これらの史書は620年の蘇我氏の政権下に編纂されたものである。
蘇我氏政権下に編纂されたこれらの史書は、少なくとも蘇我氏にとって不利な内容であるはずがない。よって、自ら焼却してまで、残したくない史書であるはずがないのである。 
クーデターの首謀者・藤原氏中大兄皇子にとって都合が悪いモノであったと考えて始めて説明がつく事である。

加えて、これまで、皇族や豪族が私有していた領土・人民を国家が直接管理する方針を打ち出す。これを公地公民という。
古来より、ヤマトは、国家は皇国であり、国民は皇民であった。これに対し、民衆が不満を持ち反発したという記録は無い。皇国と皇民の関係は、支配者と被支配者という関係ではなく、御祖と御子の関係であったからと推定される。これが現在に続く、大王の血脈を祀る神道氏神と氏子の関係にあたる。
大化改新によって、国家という名目の藤原政権が誕生したのである。

同様な事例があった。葛城系との親密な行動をとった雄略天皇に対して民衆は「徳しく有します天皇なり」と賞賛した。だが、葛城系と対立し、さらに親百済新羅政策を取った雄略天皇に対して民衆は「はなはだ悪しき天皇」と罵った。

#藤原氏

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#系図

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#天皇家

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【宇野正美】[坂本龍馬暗殺]の真相。黒幕は〇〇である。「講演会」2020年。

#中岡慎太郎
#剣山#ユダヤ

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通説では中国秦の始皇帝の末裔という古代豪族秦氏の子孫とされるが、資料による裏付けは不十分で自称の範囲にとどまる。

秦河勝は、丁未の乱(587年)で聖徳太子蘇我馬子物部守屋を倒した際に功を立て、信濃国に与えられた領地に子の広国を派遣した。その子孫で信濃国更級郡の住人の秦能俊( 長宗我部能俊)が土佐国に入って、長宗我部氏を称したとされる。能俊が土佐に入部した時期は説によって大きく異なるが、平安時代末~鎌倉時代初期に入国したものと考えられる。

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下級武士での使用例には、「組合い角に桔梗」の坂本龍馬が知られる。龍馬ら坂本家は、明智光秀の娘婿であった明智光春の子、明智太郎五郎を先祖としていることから用いている。